視覚に誤魔化されない 1  

時折、私が書いた本について真面目に論じてある感想や意見を眼にすることがある。

 その中の一つで、致命的という言葉は遣ってなかったものの、「自分中心心理学で唱えていることはもっともである。しかし、できそうでいて、できないのが“自分を見詰める”ことだ」とあった。
 これが最も困難な点であると書いてある。

 なるほどなあ、と思った。

 確かに、他者しか観てこなかった人に、いきなり「自分を見ましょう」と言ってもむずかしいだろう。

 ましてや、両眼は、外界を見るようにできている。
 視覚そのものが外に向かうから、自分を見るのはむずかしいのかも知れない。

 けれども眼に映る視野を外せば、自分を見る(感じる)ことがそんなにむずかしいことではない。

 自分を感じられないのは、視覚に誤魔化されて、心が曇ってしまうところが、多分にあるのではなかろうか。

 試しに、眼を閉じて、自分を感じてほしい。

 是非、やってほしい。
 自分の気持ちがわからない、という人ほど、ちょっと試してみてほしい。

 眼を閉じれば、自分の呼吸の状態がわかるだろう。
 動悸を感じる。
 肉体の動きもわかる。
 お腹や肩の動きを感じるだろう。

 お腹に力がはいっていませんか。

 肩のコリを強く感じる人もいるかも知れない。

 頭のほうに意識を向ければ、頭の状態を感じることができるはずだ。
 頭が張っているのか、リラックスしているのか。

 眉間に皺を寄せたり、歯を食いしばっていたりするのがわかるかも知れない。

 眠くなった人は、そのままお休みください(笑)。

 そうやっていると、「心の平安」がやってくる。

 どうしてだろうか。
 それは、「思考」が止まるからである。

 次から次へと思考する人は、一時も休まない。しかもその思考はたいがいが、不安や焦りをつくり出す思考である。

「思考」が止まった状態を知らない人は、永遠に知らないだろう。

 思考が止まれば、頭と心が安まる。
 それだけでも、「自分中心」でいることのメリットがある。

 そしてまた、それを感じているとき、あなたの意識の眼は、「自分自身」に焦点が当たっている。

 それを感じながら、眼を開けてほしい。(つづく)