視覚に誤魔化されない 2 

 他者中心と、自分中心では、合計100パーセントだと思ってもいい。
 意識が自分に向いていなければ、他者に向いている。

 だから、他者に向かう意識を、自分に向けるだけでいいのだ。

 いずれにしても、自分を大事にしていくためには、自分中心になっていくしかない。むずかしい、むずかしいとは言っていられないのだ。

 ましてや、自分中心になって「相手を感じましょう」というと、さらにむずかしいことを言っているように聞こえるかも知れない。

 けれども、実際は、「距離感覚」の本を出しているように、全ての人が、お互いに、お互いが出している意識をキャッチし合っている。

 どんなに鈍感な人であっても、顕在意識では感じなくても、無意識のところでは感じている。

 私自身は、他者の意識を感じすぎるから苦しかった。自分中心が生まれた原点の一つはここにある。

 相手を感じてしまうと、苦しくなってしまう。

 そのとき、どうすれば、感じないようにできるのだろうか、ではなくて、
「どうすれば、感じていても、影響されないでいられるのだろうか」
 というふうに考えては、その方法を探った。

 なぜなら「相手を感じる」というのは、才能の一つだからである。

 誰でもこんなセンサーは持っている。

 こんなセンサーだけでなく、全ての人が、自分では気づかないさまざまな能力をもっている。

 例えば、自分の育った家庭環境がつらければ、「感情を感じる」ことをシャットアウトしなければ、傷つき過ぎて、生きていくことができない。

 自分のいる環境がつらい場所であればあるほど、自分の感情や感覚をシャットアウトせざるを得なくなるだろう。

 自分を守るために、感じることに「鈍感になった」のかも知れない。

 鈍感になるから、自分を守るために、他者をみて、相手の動向を窺う必要が出てくる。

 けれども、そうやって他者に心を奪われていれば、自分が有しているさまざまな能力も気づかないで終わる。

 他者中心であることで、我々は、たくさんの能力を奥に眠らせてしまっているかも知れないのだ。(おわり)