目先の得で損をする

 顔見知り程度の人から、遺産相続で争っているという話を聞いた。お金持ちの悩みなのか、それとも、お金が無いからなんとしてでも手に入れたいのか、どちらかわからない。
 ただ、とことん争っていく人だろうな、という感じはした。

 いつも言っているように、「戦うことが好きな人」は、とことん戦う。
 そういう人にとっては、遺産相続争いというのは、争うこともできるし、うまくいけば、より多くのお金が入るので、願ったり叶ったりなのかも知れない。明らかに、目が輝いて活き活きしているように映った。

 遺産相続といえば、額は決まっている。一定の額の中で自分たちがどう配分するか、自分の取り分はどうか、という分け方になる。

 例えば、三千万円を三人姉妹で等しく分けるとしたら、1千万円になる。

 誰かが、さまざまな理由でその取り分を多くしようとすれば、争うことになる。

 誰かがより多くの額を主張したとき、その分配の話が粛々と進んでいくのであればいいけれども、大方はそうはならない。
 財産を巡ってさまざまな感情が交錯し、場合によっては、禍根が残るような分け方になったりするかも知れない。

 自分の人生にとって問題なのは、この点だと思わざるを得ない。
 分配額を争うことでもしかしたら、1千万円が1千三百万円になるかも知れない。

 しかし、その争い方のレベルによるが、お互いに罵倒したり憎しみ合うような形で奪い合い、それが長きにわたるとしたらどうだろうか。

 1千万円が1千三百万円になるとしたら、300万円が争い賃だと言える。

 しかし私は、その「長きにわたる争い」のほうが気に掛かる。

「争う」というのは、“破壊”である。
 もしこんな破壊的な気持ちが、長きにわって続き、その後も姉妹間に“遺産”として禍根を遺すとしたら、どうだろうか。

 300万円のために、未来の可能性を削ることになる。

 破壊的な気持ちが自分の中にあれば、その分だけ、幸せもお金も手に入りにくくなる。

 もしこのとき「長きにわたる争い」の年月を、自分の能力を活かすことのほうに情熱を注いでいたとしたら、どうだろうか。

 自分の能力を活かす情熱というのは、プラスの意識である。
 長きにわたって、そんなプラスの意識を貯金していけば、その貯金が、自分の未来をより良いものとしてくれる。

 それが「意識」だ。

「いまの意識」が未来を創る。

 きれい事を言っているのではない。

 あなたのいまの意識。
 それが人生のひな形となる。
 意識は、良くも悪くもストレートなのだ。

 目先の得に心を奪われて、300万円のために「争いの意識」を貯金していくか、その時間をプラスの時間として過ごし、プラスの意識を貯金していくか。
 最終的にはどちらが得か、言うまでもないだろう。