自覚して「頼む」ことができる幸せ

 商売柄か、個人の資質か、相談されたり頼りにされたりすることは多いが、自分のほうから頼りにするよりも、自分の力で解決したいほうである。
 頼むということに、多少抵抗感を覚えたり、負担感を覚えるのも事実である。

 これまで私が自説で述べてきたような心理に沿うならば、その分だけ自己評価が低いということになるだろう。

 自覚すると、「頼む」ということは、けっこう勇気がいるものだと気づく。

 支配的な人たちは、平気で頼むことができる。頼むと言うよりは命令したり、指示できたりする。

 相手が断ると、機嫌が悪くなったり、腹を立てたりする。

「不機嫌になる。怒る」というマイナスの感情を使ってでも、自分に従わせようとする。

 自分がそうやって強引にさせようとするとき、相手が傷つくなどとは考えない。というより、気づかない。

 例えば、自分の家庭や親子関係では、子供が親に従うのは当たり前になっていれば、相手を従わせることが相手を傷つけることだなどとは、考えも及ばない。
 相手の心を感じる感度も、残念ながら鈍くなっている。

 相手の心を感じられないときは、平気でできる。

 しかし、自分中心になると、相手の気持ちを感じるようになる。

 過去において支配的だった人が、自分中心に目覚めて相手の心がわかってくると、急に、命令することが怖くなったりする。

 実は相手に命令したり指示したりして「自分の意のままに従わせようとしている」とき、相手がそれに従ってくれたとしても、相手の人権を侵害するために、同時に、その恐怖も感じている。
 相手の心を感じる感度が低いために、それが自覚にのぼらないだけである。

 それでも、そんな恐怖は、確実に、自分の中に蓄積していく。

 自分中心になると、急に、これまで支配しようとするたびに感じてきた恐怖が、浮かび上がってくる。
 だから、怖くなるのだ。

 いかに自分が怖いことをしてきたのか。
 いかに自分の中に、たくさんの恐怖を押し込めているのか。

「自覚する」というのは、そういうことである。

「だったら、自覚しないほうが幸せじゃないですか」
 そう言いたくなるかもしれない。

 けれども、それが「幸せ」にはならない。
 なぜなら、そんな人たちは、「愛し合う」満足ということを、知らないからだ。

「命令しない。指示しない」で、自覚して「頼む」。

 その行為には、自己信頼と他者信頼がある。

 そんな依頼のしかたができれば、それだけで「自己信頼が高まる」。
 また、そんな依頼の仕方に相手が答えてくれれば、さらに他者信頼も高まる。
 この相互作用で、満足感が味わえる。
 そこに、幸せがある。

 日常的に命令したり指示したりする人は、相手が従ったとしても、こんな満足感を味わうことはないに違いない。