どうして感情を基準にしたほうがいいのか1

(1)
 すでにある程度、自分中心心理学を学んでいる方は理解できていると思いますが、初めての人はとくに、「感情を基準にして行動する」と言うと、「飛んでもないことになってしまう」と思ってしまうのではないでしょうか。

 実はそうやって「飛んでもないことになってしまう」というふうに思ってしまうのは、さまざまな感情を逆に我慢しているからだと言えるでしょう。

 例えば、我々は、知らずのうちに「それをするのが当たり前」になっています。

 自分の感情よりも「思考」で判断することが多くて、「しなければならない」と思っている人ほど、「それをするのが当たり前」で行動しています。

 例えば食事は、三度三度食べなければならない、と思っていることもその一つです。

 その三度三度も、一般的に言われているだけで、本当にそうなのかどうかを深く考えた事がある人は、それほどいないのではないでしょうか。

 もともと私自身は、いつの頃からか一日の食事は二度になっています。

 逆に、三度食事をとると、苦しくなって、食べ物がお腹に溜まって膨らんでいることを不快に感じてしまいます。それでも、いまのところ健康を害していないし、食べないことで体力がもたないということもないので、私にとってはそれで充分なのでしょう。

 その二食でも、あるときふと、
「朝、自分は、どんな食べ方をしているのだろう」
 という疑問が浮かびました。

 夕食は、空腹感を自覚して食べています。だから、時間的には厳密に決まっているわけではありません。 けれども朝は、起きたら「それをするのが当たり前」のような気分で食事をしている自分に気づきました。

 実際には、どう感じているんだろう?

 朝になったとき、自分の感覚を確かめてみると、
「あれ? それほど朝、空腹感を覚えているわけではないんだ」

 朝は、無自覚に食べていた自分がいたのです。

 もちろん、それで朝も食べなくなったというわけではありませんが、少し時間を置いてから食べたり、食べる料理の種類が変化したり、量が減ったり、休日には増えたりと、自分の感じ方によって朝食の摂り方に少し変化が出て来たことに、ほんのりと歓びを感じました。

 こんなふうに、こまかく自分をみていると、食事に関することだけでもさまざまな欲求があることに気づくでしょう。

 食事というこんな場面で自動的に動いているとしたら、他の場面でも自動的に動いている可能性があります。

 食事ぐらいだったら、それほど影響がないでしょう。
 が、もちろんこれは、自分の言動パターンのひとつの現れです。

 さまざまな場面で、「それをするのが当たり前」となっていると、
「したくない」ことがあっても、「したくない」という自分の欲求に気づかなくなっていくでしょう。

 けれども、無意識は「それをしたくない」と気づいています。
 それは、自分の欲求を無視することですから、不満を抱きます。

 そんな「“小さな”したくない」の不満が溜まっていったとき、大きな不満となっていきます。
 こんなふうに「大きな不満」となっていったときの感情を、「感情」と認識している人が少なくありません。

 だから、すでに大きな不満となってしまった感情は、
「なんとか我慢しなければならない。抑えなければならない」となっていくのです。

 けれどもそうやって、「感情を我慢しなければならない。抑えなければならない」というふうに思っていたら、どんどん自分の感情を無視していってしまうでしょう。

 では、そんな感情は、抑えたらどうなっていくと思いますか?
 無くなってしまうでしょうか、それとも、もっと大きな感情になっていくでしょうか?

 すでに答えはわかっていると思います。

 しかも、そうやって「大きな感情」になってしまったときには、
「どうして、自分はこんな気持ちになってしまっているのだろう」
 と、その感情の出所すらわらなくなってしまっているのです。 (つづく)