どこに基準を置いているか 1

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 学校に行けなくなる子供や、仕事ができなくなる人が急激に増えている。
 学校に行けなくなった子供の親、仕事ができなくなった人の家族。
 それぞれが、なんとか学校に行けるように、会社に行けるようにと、「行くこと」を基準にして、学校や会社に行かせようとする。

「行くこと」を目指せば、ついつい、動けなくなっている相手が不甲斐なく見えて、苛立ったり、責めたりしたくなるだろう。

 そんな気持ちになりながら、「行くように」と一緒になって努力する親か家族も少なくない。

 けれども、一緒になって「行くように」と親なり家族なりが一生懸命になるというのは、どういうことを意味するのだろうか。
 それでも「行くことができない」としたら。

 そもそも「行けなくなる人」は、決して、心の中で、
「行かなくても得したなあ。ああよかった。楽ちん、楽ちん」
 などとは思っていない。
 心の中で、「行けない自分」を責めつづけている。責めつづけて、自分をダメな人間だと否定している。

 そんな「行けない人」に対して、「行く」ことを目指して努力するということは、「行けないあなたはダメな人」というメッセージを送っていることになる。

 ただでさえ自分を責める言葉で頭も心もいっぱいになっている人に対して、
「学校に行けるように努力しましょう」というメッセージは、自分を心で責めてつらくなっている人に対して、ダブルパンチでとどめをさしているようなものである。

「行くこと」を基準にするのか。
 それとも、「行きたくない気持ち」を、本人が心から受けれることができるようになることが大事なのか。

 本人だけでなく、周囲の人間がどちらを基準にするかで、未来は違ってくる。  (つづく)