気づいて嬉しい

 自分中心心になっていくと、「自分が気づいて嬉しい」というようになっていきます。

「私が、こんな問題を抱えているのは、どうしてだったのか。その謎が解けたのが、嬉しい」
「私が、こんな気持ちになっていたのは、自分のこんな捉え方が間違っていたからだったのか。それがわかってよかった」
「私はこれまで、自分を責めていたけれども、責めることはないんだと気がついて心が楽になりました」

 このように、「自分が気づいていくこと」に喜びを見出すようになっていきます。

 他方、他者中心に陥っていると、自分をよりも、
「相手が、私のことを認めてくれたら、嬉しい」
「相手が、私のことを評価してくれたら嬉しい」
 という発想をします。

 相手の反応によって、一喜一憂します。

 もちろん、誰でも相手に認めてもらえれば、嬉しいものです。

 けれども、他者によって左右され過ぎてしまうと、自分の心は揺れっぱなしになってしまうでしょう。

 あるいは、他者中心の人は、相手を変えることを目指します。

「相手が、自分のことを認めてくれない。だから、認めてほしい」
「相手が私の言うことに従ってくれない。だから、従ってくれるようにしたい」

 こんな支配的な思いから、相手にかかわっていきます。

 そのために、相手が「自分をわかってくれない」というふうに感じたり、自分の思った通りの反応をしなかったり、自分の言った通りにしてくれなかったりすると、さらに相手とマイナスでかかわっていくことになるでしょう。

 けれども、相手が自分の望みとおとりにやってくれるとは限りません。

 細かいことまで「自分の予想した通りの反応でなければ満足しない」ということであればなおさら、相手にわかってもらうことは不可能でしょう。

 むしろ、そうやって、相手に満足を求めれば求めるほど、その満足は遠くなっていくでしょう。

 自分中心は、相手にそんな満足を求めるよりは、「自分自身が気づいたこと、できたこと」に焦点を当てます。

 たとえば、自分が相手に腹が立ったという場合、
「相手に腹が立った自分」を、
「ああ、そうか。腹がたったんだね」
 と、そんな自分を認めることができます。

 どうして、腹が立ったんだろうと考えたとき、
「ああ、そうか。相手に、何も言えずにいたからだったんだ」
 と気づいたとしたら、
「ああ、そうだなあ。こんなとき、私は言葉を飲み込んでしまうんだよなあ」
 と、「そんな自分に気づいた」自分を受け入れることができます。

「だから悔しかったのか。だから、悲しかったのか」
 とわかったときに、
「そうか、私が自分を大事にしていなかったのか」
 と気づくことができます。

 こんなふうに、自分のさまざまな“気づき”に、喜びを見出すでしょう。