「つらかった過去を手放す本」より  2

 彼はひたすら、親族に勝つため、兄に勝つため、学校でトップになるためと、それだけをめざして生きてきたように思います。けれどもその勉強は、自分自身が“心から望んだもの”ではありません。自分が医者になることに疑問を抱いたこともありませんでした。自分は医者になるのが当たり前だと思っていたのです。

 成績の優劣が通用する学生のときは、父親が自分にしたように、彼も人を見下していました。

 彼はあるとき、女性との交際はおろか、人と一緒にいて雑談することさえできない自分にひどくショックを覚えました。

 もちろんそんな自分であることはわかっていたのですが、成績がいいことが、彼の心の支えてになっていました。頭がいいということを後ろ盾にして、談笑にふける周囲の人々を、冷ややかな気持ちで眺めていました。

 社会に出たとき、そのプライドも砕け散り、
「どうして、こんな人間になってしまったのか」
 それを考えはじめると、怒りがこみあげてきます。時としてその感情は、憎悪の炎となって燃えさかります。

 学生の頃は黙っていても、相手のほうからやってきましたが、黙っていると誰も寄ってきません。誰も尊敬してくれないし、「すごいね」と言ってもくれません。

 言葉にこそ出しませんが、周囲の人たちが自分に対して快く思っていないのは、表情や態度でわかります。

 彼を恐れている人もいて、そんな人の態度が、いっそう彼の怒りに油を注ぐのです。

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 私たちはひどく傷ついた過去を思い出すとき、
「どうしてあんなことになってしまったんだろう。どうしてあんなことをしてしまったんだろう」
 などと激しく後悔したり、
「もしあのとき、あんなことをしなければ、あんな選択をしていなければ、もっと幸せな人生を送っていたはずなんだ」
 というような思いに囚われがちです。

 どんなに悔やんでも、過去をとりもどすことはできません。そのために、人は言います。
「つらいだろうけど、時間が解決してくれるよ」

 確かに、どんなにつらくても、時間が経てば、年月とともにその記憶も風化していって、遠い記憶となるかもしれません。

 けれども、時の流れに身を任せるだけでなく、もっと自分のためにできることがある、としたらどうでしょうか。

 前記したように、自分では、何が起こっているのかわからない。
「自分が傷ついているかどうか」すらわからない。
 こんな人たちが少なくありません。

 それでも無意識のところでは、自分が傷ついていることを知っています。

 そのために、自分では気づかなくても、その傷みを解消しようとする動きをしていきます。

 ところが、実際にはどうでしょうか。

「過去の傷みを解消しよう」とするものの、なぜかうまくいかない、ということが起こります。

 それは、他者や社会に対して、自分の育った環境を基準にして捉えるからです。

 私たちは、自分が育った環境を比較して知るチャンスが余りありません。
 自分が育った環境が適切なにか不適切なのか。その違いがわからないと、自分の行動が不適切であっても、環境で学んだ通りの動きをしていきます。

 自分では「解消しよう」として動いているつもりでも、自分がかつて過去に学習した“自分の言動パターン”は変わりません。

 そのために、現実的には、その傷みを解消できるどころか、その傷みをさらに大きく深くしていってしまうような行動をしてしまうのです。

 私たちが育ってきた環境で学んできたことは、これからの人生を大きく左右するほどの影響力をもっています。

 では、自分の言動が適切なのかどうかは、どうしたらわかるのでしょうか。

 この行動でよかったのだろうか、ほかにもっといい方法があるのではないだろうか、と迷っているときは、ほぼ「同じパターン」で動いているでしょう。

 そうやって頭で考えるより、自分が行動したとき、「その結果がどうなっているか」。それを知ることです。

 自分が行動したとき、“その結果”として、どうなったか。
 さまざまな場面での、「自分の行動と、その結果」に気づく。
 ここから、はじまります。

 自分を傷つけないためには、あるいは自分の人生をより実りあるものにしていくためには、こんなふうに場面場面での「自分を知る」ことが大事なのです。

 そして、“いま”自分を傷つけない行動、“いま”自分を守るための行動ができるようになっていったとき、それに比例して過去の傷みも軽くなっていくのです。 (おわり)