戦っている人たちのウィークポイント(1)
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すばる舎より、『なぜか「まわりは敵だらけ!?」と思ったら読む本』という本が発刊されました。
ネットで検索してみると、これまでも「争わない」ということをテーマにした本は、何冊か出ています。
けれどもそれらはすべて(と言っていいぐらい)、自分の感情を抑えたり、なだめたり、誤魔化したりしながら、戦わないというという方法を書いているように感じました。
こんな方法でも戦わないということはある程度できると思います。
自分中心心理学では常に言っているように、「我慢すれば、その我慢のエネルギーは、解消されずに蓄積していきます。
我慢しながら戦わなくても、我慢の飽和状態がくれば、我慢によって蓄積されたマイナス感情は、一気に噴き出してしまうでしょう。
そもそも、「我慢する」という認識自体が、すでに、戦っている意識と言えるでしょう。
他の本と、今回のすばる舎の本との決定的な違いは、他者と戦わなくても、戦って勝たなくても「自分を守ることができる」という点が大きな特徴だと言えるでしょう。
「戦わなくても、結果として勝つことができる」とは、常々、私が言っていることです。
理論的に言えば、もともと勝ち負けを争わない状態になっているとしたら、その中に「勝つ」という言葉は存在しません。
ですから、飽くまでも「結果として」です。
もっともそれは、だから「戦ってはいけない」と言っているわけではありません。
時には正面から向き合って、戦いも辞さない態度で臨む必要がある場合もあるでしょう。
けれども、日常生活での争いのほとんどが、問題解決のための戦いではなくて、「戦うことを目標」とした戦いになっています。
戦うことが目標となっているために、もちろん、問題解決はしません。勝ち負けを争うわけですから、仮に問題解決したとしても、双方が「よかったね」ということにはなりません。
そのために、一時は勝者であっても、敗者がどこかで、また、争いを仕掛けていきます。そんな「戦い」を延々と繰り広げていくような戦いとなっています。
簡単に言うと、仕返しごっこ。復讐ごっこです。
大半の人が、頭では、「戦っても無意味だ」とわかっています。そうでありながら、やめることができない。
どうしてでしょうか。
それは、同書を読んでいただきたいのですが、「戦いを目標」とした戦いは、自分が自覚できれば、即座にやめることができます。
むろん、戦いをやめることで、自分が条件的に不利になったり、不都合が起こったり、損失が生じたりしてしまうのでは、「戦いをやめるわけにはいかない」となってしまうでしょう。
けれども、戦いをやめることで、自分が条件的に不利になったり、不都合が起こったり、損失が生じたりはしない、というのが「自分中心」です。
むしろ私は、戦うことをやめていったほうが、どんどん自分の思った通りの人生になっていく、ということをいっそう確信する今日です。 (つづく)