戦っている人たちのウィークポイント 2

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 戦う人たちは、一見、意志が強そうに見えます。

 けれども、私が観る限りでは、戦う人たちは、「意志をもっていません」。

「得る」をめざして、戦っていこうとするのでしょうが、実際のところ、自分が得ることに対して、「心からOK」を出していません。

 戦うと言うことは、相手の持っているものを「奪う」ということでもあります。

 奪わなければ得られないと信じているとしたら、そこには「自分の力、自分の能力で得られない」という意識が隠れています。

 自分の思いとは裏腹に、戦って奪えば奪うほど、自信がなくなっていくでしょう。

 実際、社会や他者と勝ち負けを争って「勝たなければならない」と思っている人ほど、私の眼には自信がなさそうに映ります。

 戦う人は、真の意味で、自分が「そうする」こと、あるいは「そうしたい」ことを、心から認めていないし、その自信がないのです。

 たとえば怒鳴る夫と、それに怯える妻がいるとしましょう。

 その「関係性」で言えば、一見、妻のほうが夫に依存しているふうに映るでしょう。
 けれども、「依存している」という点においては、夫も妻も同じです。

 戦う人は、絶対に自分を見捨てるわけがないという確信があるときは、どんな横暴な態度でもとることができます。
 妻が我慢すればするほど、夫は、自分を見捨てることはないと確信します。

 仮に夫が妻に「出て行けッ!」と怒鳴ったとしても、それは妻が絶対に出て行かないと見込んでの発言です。

 争い合う恋人同士も同様です。
 互角に争い合っている間は、別れません。
 むしろ、どちらも「別れることはない」という安心感があるから争う、ということもできます。

 相手が仕掛けた争いに、自分が反応しつづけるということは、
「私は、あなたと絶対に離れませんから、どれだけでも攻撃してください」
 と訴えているようなものなのです。

 こんなふうに敵意識を抱いている人たちは、一方では、「自分を見捨てない」という確証を得るために争ってしまうような「依存関係」のもとに生きています。

 そのために、別れを決断させる決定的な言葉や態度は微妙に避けています。

 相手がはっきりと意志をもって行動するという気配を察知すると、見捨てられる恐怖から手のひらを返したようにやさしくなったり、あからさまにご機嫌を取ろうとしたり、妙にすり寄ってきたりと、態度を一変させます。

 恥も外聞もかなぐり捨てて土下座する人もいます。
 そんな姿にほだされて元の鞘に収まったものの、以前と同じパターンを繰り返すというふうに、戦う人たちは絶えず、こんな脆さの中に生きているのです。 (おわり)