我慢も、戦っていることになる 1

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 もしかしたら自分は、誰とも戦っていないと思っている人がいるかもしれません。
「敵」や「戦う」という言葉を遣うと、激しい口論をしたり、あるいは人によっては殴り合うことを想起して、自分とは関係がないと思う人もいるでしょう。

 けれども、もしそのときどきで、「我慢している」という意識が生まれるとしたら、それだけで戦っていることになります。

 どうして我慢してしまうのか。

「相手を傷つけたくないから」と思うとしたら、自分が言えば、相手が傷つくと思っていることになります。

「自分が傷つくから」と思うとしたら、相手によって傷つけられるかもしれないと思っていることになります。

 敵だと思っていない人は、話せばわかり合えると思うでしょう。仮に相手とわかり合えないとしたら、「自分が傷つく前」に、相手から離れることができるでしょう。

「でも、職場では、そんなことはできませんよね」

 ほら、戦っていると、すぐにそういう言葉が出てきます。相手が戦っていたとしても、自分が戦わないでいることはできます。

 もちろん、それは、我慢することではありません。

「“我慢しない”ことと“戦わない”こととが両立するなんて、そんなことはあり得ない」
 と思う人がいるかもしれません。

 あるいは、人といるとき、どうしても緊張がほどけないとしたら、それも戦っているからなのかもしれません。

 自分が怯えていたり縮んだ心の状態でいるとしたら、それも、戦っているといえるでしょう。

 人と戦わなくても、自分と戦っている人たちはたくさんいます。

 自分の中に自分の理想像があって、それに合致しない自分を否定していたりすれば、自分と戦っていることになります。

 他者と戦い、自分と戦う。

 多くの人が「勝つこと」を目指して戦います。
 けれども、果たして、一般生活において、戦って勝つということがあるのでしょうか。

「だって、私は戦いたくなくても、相手が仕掛けてくるんですから、降りかかる火の粉は払うしかないじゃないですか」

 もちろん、戦うなと言っているわけではありません。戦うべきときもあるでしょう。

 けれども、火の粉が自分に降りかかる前に気づくことができれば、「払う必要」もなくなります。 (つづく)