戦っても「勝つことはない」

 無意識に、相手を敵とみなしていると、戦って勝とうとします。

 競争社会だから、「勝たなければならない」と思っている人たちがほとんどでしょう。

「イヤな人間を凹ましたり、イヤな相手に勝てば、さぞ気持ちがいいだろう」
 と思うと、そんな気がします。

 けれども、実際にはそうではありません。

 なぜなら、恐らく大半の人が、
「他者と感情的に争って、勝った」
 経験があるはずだからです。

 相手と争って、勝った(はず)。でも、勝った当人が、自分が勝ったと気づかない。相手が自分に対して悔しい思いをしているということは、「自分は勝っている」ことになります。

 ところが、勝っているはずの当人も、相手に対して、悔しいという気持ちを抱いています。

 勝っているはずなのに、負けた気分で、相手に対して「悔しい」と思うのです。

 実際には勝っていても“満足しない”から、さらに「勝ちを目指す」という繰り返しです。

 勝ち目指すことで、「自分を成長させることができる」という捉え方もできるので、「勝つことが悪い」とは言えません。

 が、勝ちを目指している人が、「負けた場合」はどうなるのでしょうか。

 勝ち負けを争っても、結局は、“ほとんど満足しない”ということであれば、負けた悔しさばかりが募っていくことになります。

 たとえば、他者に罵詈雑言を浴びせる人がいます。
 罵詈雑言を浴びせる人に対して、罵詈雑言で返せば、争いになっていきます。

 争えば、どちらも、心から「勝った」と満足することはないでしょう。

 相手がそれに乗らなければ、「言いたい放題」に言えます。

 状況的には、相手を追っ払ったのですから、勝っています。
 このとき、
「ざまあみろ。勝ったぞ」
 と、自分に言うことができれば、少しは満足するかもしれません。

 けれども、そうはなりません。

 相手が、冷静な態度で、その場を立ち去ったとしたら、罵詈雑言を浴びせた人は「勝った!!!」と思うでしょうか。

 こんな状態になっているとき、心理的にはどちらが勝っているのでしょうか。

 自分の挑発に乗ってこない相手に対して、いっそう苛立ったり腹が立ったりするでしょう。と同時に、惨めな気持ちにもなるはずです。

 では、なぜ、そうやって罵詈雑言を浴びせてしまうのか。

 それは、本人は気づいていないかも知れません。本人は「勝ち」を目指しているつもりでいるのかも知れません。

 けれども、争わないで立ち去った人には、それがはっきりと見えます。

 罵詈雑言を浴びせる人が最も欲しているのは、「愛」なのだということを。

 だから、争いに乗らないでいられる人は、罵詈雑言を浴びせる人に対して、心から慈しみの心を送ることができるでしょう。

 けれども……、けれども、そうやって罵詈雑言を浴びせる人は、悲しいかな、「自分を愛すること」を知りません。

 だから、自分が愛を求めていることにも気づかずに、「争って勝とう」とするのです。