苦労して努力することはない

「テレビで、つらい人生が送っている人が、厳しい生き方をしながらも、人のためになる福祉関係の仕事をはじめたという番組を観て、私は“甘えていたのだ”と気づきました。私もつらいけれども、努力が足りないと思いました。だから、もっと頑張ってみたいと思います」
 といった内容のメールをいただきました。

 厳しい環境にいる人たちが、自分なりに努力しながら、少しずつ、前向きに生きようとしている姿には、心が打たれます。

 厳しい環境にいながら頑張っている人たちがいるのだと思うと、それが励みにもなります。

 ただ、私は、「どうしてわざわざ“苦労して”努力しなければならないだろうか」と思ってしまいます。

 努力することに異存はないのですが、どうしても、「苦労して」ということに引っ掛かってしまうのです。

 個人的には、「わざわざ苦労しながら努力することはない」と思っています。
 なぜなら、私には、その苦労が、ほんとうは「もっとラクにできるはずなのになあ」と見えてしまうからです。
 苦労する必要がないところで、苦労しているとしか思えないのです。

 テレビで、和菓子の新作づくりに頑張っている若者の番組を観たことがありました。そのお店の若旦那のようでした。
 観たといっても、数分だったので、全体的なことはわかりません。
 ただ、その若旦那と熟練の菓子職人さんが画面に出たとき、熟練の職人さんの風貌に、つい、
「きつい言い方で、指導しているんだろうな」
 と思ってしまいました。

 実際にどうだったかはわかりません。

 私の中に、いわば「徒弟制度」のような職場では、まだ、怒鳴って教える、きつい言葉を浴びせる、というようなイメージがあったからでした。

 人によっては、怒鳴られたほうが、気持ちがピンと引き締まって、やる気が出るという人もいるかもしれません。

 けれども、怒鳴られたり罵声を浴びせられれば、萎縮してしまいます。

 萎縮しながら和菓子の新作を考えても、怒鳴られる恐れや失敗してしまう恐れのほうに焦点が当たれば、新作づくりに注ぐエネルギーや集中力は大幅に削がれてしまうでしょう。

 そうやって「怒鳴る。萎縮する」という関係が、私には、無駄に思えてなりません。
 苦労というのは、多くの場合、本来必要のない、こんな「心理的摩擦」や葛藤であるように思うのです。

 もともと必要でないものを、わざわざ背負い込んで苦労する必要があるのだろうか。そう思います。

 多くの人が、
「困難な道を克服してこそ、強くなれるのだ」
 と思っているようです。

 けれども、「怒鳴る。萎縮する」という環境に、苦労しながらそれに耐えて踏ん張るよりも、私自身は、そんな環境の中に入っていかない。入ってしまったとしたら、そこから「去ることができる」人間でいたいと思います。

 なぜなら、「怒鳴る。萎縮する」という環境に踏ん張ろうとする人たちは、そんな扱いを受けても「そこから、抜け出すことができない。そこから去ることができない」弱さを抱えているからです。

 一言で言えば、“依存性”です。

 そんな依存性を隠して苦労に耐える自分を育てるよりは、「そこから去ることができる自分になりたい」と、そう思います。

 もし今も、そんな環境で強くならなければならないと思っている人がいるとすれば、「そんな環境から去ることができる」、そんな自分を育てるための努力をしてほしいものです。

 つらい環境下で動かずに踏ん張って耐えることではなく、つらくないような人生にしていける自分を育てていくことが、本当の強さだと言えるでしょう。

 厳しい環境に耐えなければならない、という発想からは、抜け出したいものです。