わざわざ苦労している

 自分を中心にした生き方が身についてくるにつれて、
「だんだん自分の状況が見えてくるようになるんですね」
 と言われます。
「どれだけ無駄な生き方をしてきたかが、わかります」
 という人もいます。
 なかには、
「もっと、はやく知っていれば、遠回りせず済んだのに」
 と過去を悔やむ人もいます。

 もちろん、過去の過ぎた時間が無駄だったということはありませんし、どんな過去であっても、そのときの自分にとっては、“精一杯だった”という見方ができれば、過去の自分に対して労る気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。

 ただ、確かに、自分中心の視点からみると、
「わざわざ、苦労しようとしている」
 というふうに見えたり、
「わざわざ遠回りしている」
 というふうに映ることもしばしばです。

 たとえば、自分の身近な人が、何かに悩んでいるように見えるとき、どういった対応をしがちでしょうか。
 これが親子関係である場合、心配なあまり、何が何でも聞き出そうとする親もいるでしょう。
 子供が明らかに言うことを嫌がっているとしても、しつこく聞いて、まるで「何がなんでも白状させる」というような勢いで迫ってしまう親もいます。

 親が過去にも子供に、そうやって迫っていたから、子供は悩んでいても口を閉ざすようになってしまったにもかかわらず、同じような迫り方をしてしまえば、いっそうこじれていってしまうという親子関係が少なくありません。

 こんなとき、親としては「子供を心配するのが、親の愛情だ」というふうに思っている人は、そうやってこじれても尚、これが親の愛情だし、子供はこんなとき、反抗するものだ。それでも、親の愛情を、わからせる必要があるのだ、というふうに思っているかもしれません。

 しかもそうやって、こじれてしまうような関係が愛情だと思っている親は、子供が自分のことを話しても、子供を否定するような言葉が返ってきて、子供に、
「やっぱり、親に言うんじゃなかった」
 と、決意させてしまい、かえって、親子の間の溝を深めてしまうようになることもあるでしょう。

 それでも、それに気づかない親は、いつか、親の愛情を汲んでくれると思っているかもしれません。

 こんなとき、
「あなたがつらそうにしているので、何かあったのかなあと、心配になったんだ。聞いてほしいことがあったら、いつでも、声かけてね」
 と子供の気持ちを尊重するような言い方ができれば、恐らく、子供のほうから、相談したくなるに違いありません。

 こんなふうに、適切な関わり方を知っていれば、とても温かい親子関係を築ける場合でも、知らないと、自分では一生懸命愛しているつもりでも、その愛が伝わらなかったり、場合によってはどんどん溝を深くしていってしまう。「わざわざ、苦労している」というのは、こういうことなのです。