「今日」の私 1
自分が何に囚われているのか。
それに気づくには、自分の気持ちを感じていないとわかりません。
今日の私は、どんな内容の本が売れているんだろうかと、そんな目で新聞に目を通したときでした。
それは、飽くまでも「今日の私」です。
明日はわかりません。
もっと言えば「この1時間の私」。この「1分の私」に焦点を当てることができます。
「今日の私」は、そんな目で新聞をみているとき、一冊の本の広告文字が目に留まりました。
留まるもなにも、大きく宣伝してあるので、誰の目にも留まります。
第一作で大ヒットを飛ばした方の二作目の作品です。
作家としての立場で見れば、その宣伝の大きさに、羨ましいという気持ちが起こります。私自身もたびたび大きく新聞に宣伝していただいているにもかかわらず、そんな気持ちが少なからず、ありました。
が、それ以上に、自分がこだわったのは、ヒットするだろうなという予感を感じながら、その本の内容が、
「中くらいの幸せで満足しなさい。誰だって困難や苦労があるのは当たり前。元々、そんな困難や苦労があるのが人生なんだから、その中で、幸せを見出すんですよ」
というふうに言っているように感じたからでした。
もちろん、見出しをみただけなので、内容がどうなのかはわかりません。
さらに気になるなら、私も本を買えばいいだけです。
飽くまでも、「今日の私」が、新聞の広告のキャッチコピーを読んで、そう感じたということだけです。
これを書いたら、もうその後は忘れているかもしれません。
けれども、「自分が何にこだわっているか」に気づくことは大事です。
なぜなら、こんなこだわりに気づかないでやり過ごせば、それらが蓄積していって、大きなこだわりへと肥大していくからです。
「今日の私」のこだわりは、
「自分中心に生きたほうが、はるかに物事も仕事もうまくいくし、人間関係もラクになるし、より親しい人とは親しくなれるし、相手も育つ」ということを知っていることが、生み出したものでした。
「困難や苦労は当たり前。それが人生なんだから」というふうに信じてれば、そうなっていくでしょう。
けれども、そんな生き方に共感する人が、圧倒的に多いだろうなと感じたことが、自分のこだわりを生み出したのです。
もちろん「自分中心」的視点に立てば、そんな困難や苦労は、自分自身の意識と言動パターンがつくりだしたものだとわかります。
早めに気づいて対処できれば、そんな人生は回避できます。
それに気づかずに「困難や苦労は当たり前」とばかりに、わざわざ困難な目に遭い苦労するとわかっている人生に、自ら飛び込んで行っては我慢する人たちが、たくさんいることに、一抹の寂しさや虚しさを覚えたからだったのかも知れません。
けれども、私にとって、ということであれば、「その瞬間に自分のこだわりに気づいた」ことは、非常によかったということになります。
なぜなら、気づくからこそ、そんな自分のこだわりを、具体的に解消できるからです。
あるいは、その方法を、探すことができるからです。 (つづく)