「今日」の私 2
(2)
どうして、困難な出来事や苦労を克服することを、金科玉条のように尊ぶのでしょうか。
まるでそんな困難な目にあったり、苦労することが、とても貴重なように思ってしまうのでしょうか。
ふと思ったのですが、これもいま、ふと「鶏が先か、卵が先か」論に似ていると思いました。
困難な出来事や苦労することを尊んでいるのではなく、困難や苦労が最初にあった。
もともと、困難や苦労しか知らなかった。ラクであること、幸せであることの経験が乏しく、また、ラクであることや幸せであるための、具体的な方法を知らなかった。
だから、辻褄を合わせるために、困難や苦労を貴いとしたのではなかろうか、なんてことを考えつつ、今、私は、「疲れた」と感じました。
「今の私」の話を書き続けようかと思いましたが、いま私は、疲れたと感じたから、休憩したくなりました。
このまま我慢して書こうとしても、頭が働きません。
ですので、ここで休憩をとろうと、決めました。
これが「今の私」を大事にする、ということです。
これが「今の私の感情、欲求、願い」を叶えてあげる、ということです。
「でも、いま、我慢して書かないと、終わらなくなってしまう」
「終わらないと、さらに忙しくなってしまう」
などと思いを未来に飛ばしてネガティブな思考をしはじめると、さらにネガティブな感情が生まれます。
「今の感情」から外れて、思いが未来に飛べば不安になって、そうならないためにと発想して、
「じゃあ、我慢して書こう」
となるでしょう。
これでは、自分の疲れた状態を無視することになります。
こんなときの「今」なのです。
今、疲れたと感じている。
だから、未来のことを思いわずらってネガティブな感情をつくるより、「今」休憩する。
これが、「今の私」ということなのです。
ちなみに、困難や苦労が、自分の人生について回るとしたら、それは困難や苦労することが運命ではなくて、その多くが「責任のとり方」を知らないからです。
「責任をとる」ということと、「苦労する」ということの区別ができていないために、わざわざ苦労するような選択をしてしまっている、というだけです。
つまりそんな苦労や困難は、敢えて選ぶことでもなく、また、元々回避できるものなのです。
従って、さまざまな人の人生のさまざまな経験は貴いと言えても、わざわざ苦労や困難の人生を選ぶことが貴い、ということはないのです。 (おわり)