精神的痛みは肉体的痛みよりも超高性能
『「なりたい未来」を引き寄せる方法』(サンマーク出版)に書いているように、「感情は情報」です。
感情は、抑えるものでも、無視するものでも、コントロールすべきものでもありません。
これまであなたが、うまくいかなかったのは、感情の捉え方を、勘違いしていたからです。
今日、これから、感情の捉え方、認識をこんなふうにチェンジしてほしいものです。
私たちは、肉体的痛みには、すぐに気づきます。
手にトゲが刺さっても、目にゴミがはいっても、痛いとわかります。
痛いから、すぐに気づきますし、痛みの元となるものを、すぐに取り去ることができます。
痛みがなければ、致命的な傷を負っていても、気づかないかもしれません。
肉体は、痛みという点においてだけでも、人智では足下に及ばないほどに超高度な機能を備えています。
肉体がそうであるなら、心もそうだと言えるでしょう。
心の痛みについても同様で、目に見えないというだけで、ほんとうは、肉体以上の機能を備えているはずです。
肉体以上に繊細かつ超高性能であるはずです。
おかしな話です。
肉体の痛みは、すぐに気づくし、すぐに取り去ろうとするのに、心の痛みは、取り去ろうとするどころか、「我慢しなければならない。抑えなければならない」なんて!
痛みを抱えたまま、心の傷が、ひどくなっても化膿していたとしても、我慢しなければならないなんて。
しかもその痛みは、誰のための我慢なんでしょうか。
例えばあなたが我慢しているとき、あなたの側で、
「あなたが我慢してくれているので、私は、幸福でたまらない。毎日、毎日、嬉しくて、楽しくて、心から満足しています。毎日毎日、この瞬間も、あなたが我慢してくれているので、私は一日一日が“最高に幸せ”で、一瞬一瞬、感謝の気持ちに満たされて過ごしています」
という人がいますか?
我慢している人を側に置きながら「だから、私は、大満足よ。この上もなく幸せです」と言える人がいるとしたら、逆にそれも奇っ怪です。
少なくとも、あなたが我慢することで、あなたの身近に「私は最高に幸せだ」と言い切れる人は、いない。そう思いませんか?
そんな無益な我慢をするよりも、感情を「情報」として捉えたほうが、遙かに有益な人生、豊かな人生を送ることができるでしょう。
「肉体的痛み」が肉体の状況を知らせる「情報」であるなら、感情という「精神的痛み」は、心の状態を知らせる「情報」です。
それを抑えて、「鈍感になれ!」なんて、誰が言い出したのでしょうか。
感情を情報とするならば、むしろ、「感情の感度」が高ければ高いほど、早めに何が起こっている気づくことができます。
早めに気づいて手当できれば、苦しい状態、切羽詰まった事態、過酷な状況になることを、「未然に防ぐ」ことができます。
それにまた、ネガティブな感情を抑えて、心の痛みに鈍感になるように日々トレーニングしていけば、ポジティブな感情を感じる感度も鈍感にならざるを得ません。
無数の痛みがあるように、歓びや幸せも無数にあります。
ポジティブな感情の感度が高ければ、満足感、充足感、至福感、高揚感の感度も高くなって、生きる歓びを味わうことができるでしょう。
感情が「自分の人生の情報」として機能しているとするならば、それら無数の痛みや歓びの一つ一つが、自分の人生を形づくる材料だといえるでしょう。
自分の中にネガティブ、ポジティブ、さまざまな感情があれば、無意識は、そんなさまざまな感情を材料に、どんな注文でも引き受けて、自分の思いと寸分違わない人生を創造してくれます。
自分の思いが矛盾していても、それを矛盾なく叶えてくれるのが無意識の力なのです。
いまあなたが感じている、その「感じ方」の分量が、そのまま「未来の種」となり、未来の花となり果実となることを保証するのです。