やり直すには遅すぎる?

 人生の折り返し地点を過ぎた人たちが自分中心の生き方に気づいた時、よく、こう言います。
「そういうことだったんですね。もっと、早く気づけば良かった。でも、もう、私は〇歳です。気づくのが遅すぎました……」

 この歳から、新しい生き方を初めても、もう、遅い。やり直しができるかどうか。あるいは、過去のことを振り返ってきて、「なんて、無駄な人生を送ってきたのだろう」そんな、自責の念や取り返しのつかない人生を無念に思う。そんな気持ちが、こんな言葉になるのです。

 無理ありません。

 けれども、そうではありません。

 私自身は、最近とみに、人間の本質のところに焦点を当てています。
 自分の本質が望むところの人生の真の目的は、
「いまの社会で成功する。出世する。金持ちになる。人から羨ましいと思われるような生活をする」
 あるいは、
「とにかく、何が何でも、いま、うまくいけばいい。心の成長なんて関係ない。どんな手段を用いても、いまの苦しい状況が変わればいいんだ」
 ということとは、違うところから見ています。

 私はこれまで、この業務についてかなりの年月を経ています。
 その間、たくさんの人とお会いしました。

 直接私が体験したわけではありませんが、会った方々の数だけ、さまざまに異なる人生のエッセンスに、いまも触れさせていただいています。

 ある意味、特殊な世界にこれだけ長くなっていると、イヤでも、それぞれの方々に共通するものが、見えてきます。

 どうして、それが起こるのか。
 そのときはどうにか回避できた。やり過ごせた。としても、それでは終わらない。
 また、別の時期に、別の相手かもしれないけれども、似たようなことが起こる。場合によっては、それは、エスカレートした形です。

 ところが、逆に、
「あれほどひどい体験をしたのに、今回は、似たような状況になっているのはわかる。あ、また、あのときの再現か!?」
 そんなふうに恐れて緊張しても、それが「起こらない!!」ということも増えてくる。

 むしろ、なぜか、好ましい結果になります。

 自分にとって、「一生のテーマ」と言えるものほど、そうなのです。

 どうして、そうなるのか。
 何が起こっているのか。

 結局は、私たちは根本的に、すべての人々が、
「自分の精神性の質を高めていきたい」
 そう欲求しているとしか言いようがありません。

 なぜなら、それがクリアーできるまで、「問題。トラブル。悩み」という形で起こりつづけるからです。

 人間の本質の本来の目標は、精神性を高める。
 それは、「自分を愛する。自分を自由にしていくこと」と言い換えてもいいでしょう。

 無意識の視点からみると、そういうふうにしか見えないのです。

 もっと正確なことを言えば、「自分の精神性の高さに気づく」ということになるかと思っています。

 もともと、私たちの本質は、精神性の質の高さを、資質として有しています。それに気づかないのは、あまりにもこの目の前の三次元の社会に目を奪われてしまっているからです。

 ですから、この観点からみると、
「人生をやり直すには、もう、遅い」
 ではなく、こう言うべきです。

「この歳になって、ようやく、気がついた。これに気づくのに〇〇年を要したのか。ああ、やっと気づいた!! 気づけてよかった……」
 そう自分に向かって言うべきなのです。

 まさに私たちは、それに気づくために生まれてきていて、この世で、体験することで、それを知る。そのために生まれてきているのです。

「そんな気づきで、世の中を生きていけるわけがない。そんなもので飯を食っていくことはできない」
 仮にそう叫ぶ人がいたとしても、無意識の観点からすると、すべての人が、「それを目指している」という結論しか見出せません。

 そう叫ぶ人は、単にそれに気づいていない。あるいは、無意識に気づいているけれども、それを認めたくない。
 なぜなら、諸々の意味で、そうしたくないと抵抗している。あるいは、する方法を、まだ、諸々の心理的な理由から、学びたくない、そう思っているからだと、私は解釈するでしょう。

 そしてまた、
「そんな気づきで、世の中を生きていけるわけがない。そんなもので飯を食っていくことはできない」
 というのも、間違っています。

 というのは、自分の精神性の高さに気づけば気づくほど、“そう叫ぶ人”たちの言っていることのほうが間違っていて、
「そんな気づきで、世の中を生きていける。そんなもので飯を食っていくことはできる」
 のです。
 むしろ、そんな気づきがある人ほど、自分の未来も保証されると気づくに違いありません。