それを「前提とする」と強くなれる

「相手の自由」を認めると、「自分の自由」を忘れてしまう、ということは前にも書きました。
 ほんとうは、相手の自由よりも、まず「自分の自由」を育てることが先決なんでしょうね。

 相手に対して「相手の自由。相手の自由」と自分に言い聞かせても、気分的に抵抗感を覚えるとしたら、相手の自由よりも、自分自身が、まだ、自由になっていないところがあるのではなかろうかと考えたほうがよさそうです。

 それに気づかずに、相手の自由を“認めなければならない”と思えば思うほど、相手に対して、かえって強く要求したり、相手を責めたくなるでしょう。

 そんなときは、「自分の自由」をもっと点検しつつ、もう一つ、相手の自由を認めるための方法があります。

 それは、それを「前提とする」ということです。

 例えば、相手の口調が攻撃的だとしたら、その言い方を「前提とする」。相手の攻撃的な言い方に対して傷ついて、その攻撃的な言い方を改めてもらおうとすると、争いになるかもしれません。心の中だけで相手を否定していると、自分自身がつらくなります。

 自分にとって不愉快。けれども、それを直すことを要求するのは、自分のほうが「相手の領域を侵害していることになる」という場合は、それを前提としたほうが、自分の心が楽になるでしょう。

 もちろん、相手に対して気になる点を前提としたら、「いっさい、何も言わない」ということではありません。

 むしろ、言うべきときは、「はっきりと言おう」という気持ちなれば、本物です。
 そんな気持ちになってきたら、「私を認める。相手を認める」という、お互いの自由を尊重し合える能力がグレードアップしたと解釈していいでしょう。

 ですから、自分の気持ちを「はっきり言おう」というふうに決めたとき、相手を戦うべき敵として認識して相手を否定したり、攻撃したり、打ちのめそうとするような意識が減ります。

「とにかく、私自身が、言わないと、一緒にやっていけない。だから、はっきり言いたい。それでどうするかは、言ったあとの“自分の気持ち”で決めよう」
 こんな意識で、はっきり言うことができるでしょう。

 そんな言い方ができるのは、結局は、自分の心を救うためだと言えるでしょう。

「それを前提とする」の効用です。
 例えば、
「こんな社長であることを、前提とする」
「こんな親であることを、前提とする」
「こんな家族であることを、前提とする」
「こんな同僚Aであることを、前提とする」
「こんな職場であることを、前提とする」

 どうでしょうか。
「前提とする」と、心が少々強くなった気がしませんか。