欲求と思考

 こんな“欲求”がある。
 心が疲れてしまっていて、誰とも話したくない。
 こんな状態を知られるのがつらいから、誰とも会いたくない。

 ところが、こんな“思考”をする。
 どうしたら、こんな状態から抜けることができるんだろうか。
 このまま、こんな状態が一生つづいたら、どうすればいいんだろうか。
 こんなふうに、思考で欲求を打ち消します。

 思考で打ち消してしまえば、「誰とも話したくない」という欲求を満たすことができず、その後もずっと、「誰とも話したく」という欲求を満たさないまま、
「このまま、こんな状態が一生つづいたら、どうすればいいんだろうか」
 と思考し、呟くことになるでしょう。

 思考で解決することも沢山あるでしょう。
 論理的に考えたほうが、うまくいくこともたくさんあります。

 では、例えば、
「こんなことをしていて、いいんだろうか」
 と自問しました。

 そんな自問をしたあと、3ヶ月が経ちました。

 では、その3ヶ月の間で、もう、その問題は解決して、スッキリしたでしょうか。

 頭では、朝起きたら、10分で朝の身支度をして、食事を20分。トレイを10分。夜は食事に1時間。お風呂を30分。
 6時間寝れば大丈夫。きっかり1時に寝て、7時に起きればいい。

 私たちがロボットのように正確に動くことができれば、それも可能でしょうが、人はそうやって機械的に動くことはできません。

「しなければならない。したほうがいい。できて当たり前」という発想からスタートして、理論的にはできるはずなんだから「だから、できるはずだ」と自分に言い聞かせたとしても、できるものではありません。

 どんなに「思考」をしても、解決するよりは、何ヶ月経っても何年経っても、同じ思考を繰り返しているだけでしょう。

 ですから、「こんなことしていていいんだろうか」と、自分に問いつづけながら、一生を終えることもできます。

 しかしその間に、「自分の欲求を満たす」ということに焦点を当てて、その欲求を満たしてあげるとしたらどうでしょうか。

 例えば、
「私は、歩くのが好きだ。歩くと、気分がいい」

 この「歩くのが好きだ。気分がいい」が発展していけば、どうなるでしょうか。

 少し遠くまで歩いてみよう。
 どうせ歩くなら、早朝がいいなあ。
 早朝に歩くと気持ちがいいなあ。
 早朝の公園は気分爽快だなあ。
 そうだ、今日は、休みだから、少し遠出してみよう。
 やがては、
「もっと楽しみながら歩きたい。今日は、一泊旅行で歩いてみよう」
「どんなところを歩こうか。山にしようか。川にしようか」
 さらに行動範囲が拡がっていけば、いつか、
「どんな国に行って歩こうか」
 となっているかも知れません。

 こんなふうに満足を追求していけば、どんどん自分の行動範囲が拡がっていくでしょう。

 すごく単純なことです。

「こんなことしていていいんだろうか」と思考で考え続けるよりは、実際に自分の欲求を、「できるところから満たす」行動をする。

 たったそれだけで、数年後には、まったく違った人生になっているのだということは明かです。

「思考」で生きるか、「欲求」で生きるか。どちらのほうがより、豊かな人生になっているか。

 多くの人たちが、初歩的なことを忘れている、そう思えてなりません。