他者に従いたくない

セミナーで、「それをしなくてはならないんですか」と尋ねた人がいました。もちろん、しなければならないことはありません。するかどうは、その人の自由です。

 したくなかったら、「したくない」という気持ちを、心から受け入れて、見学するという立場で参加することもできます。

 ただ、この「しなければならないのですか」という問いでも、ちょっと違った意味に聞こえることがあります。

 そう感じるのは、言葉ではなくて、その人の意識を感じているからです。

 例えば、その言葉を、
「いま、私はこれをしたくない」
 という欲求の気持ちで言っているのか。それとも、
「お前の言うことなんかには、従いたくない。どうして従わなくちゃならないんだ」
 という反発心や戦う意識で言っているか。

 こんな意識の違いを、聞いているほうは、しっかりとキャッチします。
 もちろんそれが正確かどうかわかりません。
 が、概ね「感じ方」というのは、頭で考えるよりは非常に正確です。

 普段から「感じる感度」を高めたほうがいいと言うのは、こういうところからです。

 それはともかくも、例えばセミナーで、
「こんな実験をしてみましょう」
 というレッスンでも、
「(他者に)強制されている。でも従いたくない」
 というふうに思っていれば、相手の言うことには、すべて従いたくない気持ちになっていくでしょう。

 実際にそのレッスンをしたらしたで「従うように強制された」いうふうに解釈するので、「強制された」という気持ちだけが強く残ったり、その気持ちが大きくなっていくでしょう。

 相手に対して「従いたくない」という反発心をもっている人ほど、こんな反応をします。

 そうやって、ますます自分が、従いたくないのに、「強制される」という思いに占められていけば、何もかも「強制される」というふうに見え始めるでしょう。

 そんな思いに心が支配されてしまっていると、相手が強制していないにもかかわらず、
「油断したら、相手は自分に従わせようとしてくる。注意深くなって、従ってなるものか」
 などと心の中で反抗しています。

 人に対して反発心や「戦う意識」が強い人は、相手の言葉をすべて、「自分に強制している」というふうに捉えます。
 だから「従いたくない」となって、幻の相手と独り相撲のように戦っています。

 しかしそうやって心の中で反発するのが常態になっていると、自分にとって大きな損失となります。

 それは、実際には敵はいないのに、仮想敵を想定して、「従いたくない」という戦う意識に囚われているために、「私は、これがしたい」という欲求が育たないという“決定的な損失”です。

 相手に反発するためには、仮想敵を想定するように、“敵”が必要です。

 絶えず“敵”に焦点が当たっていれば、「私が、これをしたい」という欲求も、「だから、私はこれをする」という意志も行動も育たないのは、当然のことでしょう。

 他者に囚われて反発心を燃やしたり戦っていると、自分の価値をどんどん損ねていきます。

 そんな人ほど、まずは人のことよりも、自分自身の価値を育てるために、ひとりでできるレッスンから始めましょう。

 これまで他者に囚われて、自分を育てて来なかった人たちは、人のことより、まず、自分を育てるレッスンをしましょう。