相手を分析しなくても、感情に従うだけでいい

 話をしているとき、その会話に、いつも第三者の話が出て、戦いを煽るような話題をもってくる人がいます。
 人と比較したり、比較しながら買った負けたと戦っていると、それが無意識に、言葉になってあらわれるからです。

 例えば、
「あなたはこうだけど、あの人は、こうなんですよね」
「いま、あなたはこんなふうに言っていますが、あの人は、そんなことは言っていませんでしたよ」
 などと、告げ口をするような言い方をして、戦いを煽る。

 こんな話をされると、まず、「自分とAさんと比較されていること」に、不快感を覚えます。

 こんなとき、相手がどういう意図をもっているのか、何を言いたいのかと考えたり、相手の思惑を考えたり詮索したりすると、疲れます。

 それにまた、そんなふうにどんなに相手のことを考えても、「無意識領域の視点」から見ないと、理解できないこともたくさんあります。

 例えば、「無意識の大きな目的」の一つは、明らかに戦いを煽ろうとしています。他者を煽って、争わせることを意図しています。

 けれども、相手がどんな意図があるのか、思惑を抱いているのか、などと懸命に考えることはありません。また、「無意識の視点から」などと、深刻に考えることもありません。

 自分を守るためには、単純に、
「(意味はわからないけれども)そんな話を聞くと、不快になる」
 という自分の感情を大事にすればいいだけです。

 まあ、考察するのが楽しいのであれば、考えるものいいことですが、相手の思惑や意図をいろいろ探って、自分が疑心暗鬼になるのなら、考えないほうが賢明です。

 単純に、自分の気持ちを大事にするだけ。

 そんな人と、親しくしたいかどうか、だけです。

 もし親しくなろうとしたら、恐らく、たびたび「(訳がわからないけれども)不快になる」ことを覚悟しなければならないでしょう。

 そんな不快な感情を自分が処理できる方法を知って、相手を育てようと思う気持ちが、自分にあるかどうか。

 そんな気持ちがないのであれば、自分の「不快な感情」を情報として、その人との距離のとり方を測ったほうが、はるかに自分を守ることができるでしょう。

 こんなふうに、「自分の感情を情報に使う」ほうが、簡単に自分を守ることができます。

 自分の「感情」や「感じ方」を基準にする。
 自分を大事にする。愛する。守る。
 自分の人生は、自分自身が主役なんですよ。