相手に、自分の世界の理解を求めるのは無理

 自分が根底に、どんな意識をもっているかは、自分でもわからないものです。環境が違えば、同じ言葉を遣っていても、それの意味するところも違います。

 例えば「家族が大好き」という言葉を遣っても、その「大好き」の状態は人それぞれで、互いに尊重し合っているかもしれなし、家庭内で乱暴な言葉を遣っているかもしれないし、互いに小突き合っているかもしれません。

 例えば、ここに、根底に「戦う気持ちをもっている人」と「愛する気持ちをもっている人」がいるとしましょう。

 両者は、その意識の違いだけで、思考から行動までが決まってしまいます。
 同じスタートラインについていたとしても、この両者は、気づかずに正反対になるような結果を選択していくでしょう。

 戦う人は、勝ち負けにこだわります。そのために、自分の形勢が有利だとしたら、どんどん支配的になったり、勝てば、戦利品として相手のものを奪うことも厭わないかもしれません。
 形勢不利だったら、防御に入ります。
 他者のものを奪う人は、必死に奪われまいとするでしょう。
 自分がもっている情報を公開しようとするよりも、隠そうとしたり出し惜しみするでしょう。それを取引につかったりもするでしょう。
 また、どこかで、形勢を逆転させようと、そのチャンスを虎視眈々と狙うでしょう。

 愛する人は、「勝ち負け」に執着していないので、形勢が有利か不利かという発想からは入りません。
 もっている情報は分かち合いたいと願うために、人のために公開したり伝えることに歓びを覚えるでしょう。
 損する、得するという発想よりは、そうすることそのものを歓びとすることができるでしょう。
 心がオープンであるために、相手のほうからも情報がもたらされるでしょう。

 こんな両者の違いは、例えば言い方にも顕れます。

 戦う人は、何かを試そうすることにも消極的です。争いに巻き込まれたくない。トラブルが起こると厄介だ。そんな恐れから、
「動くな。するな。やめておけ。どうせ無理だ」
 と、相手の行動を制御してやめさせようとします。

 愛する人は、
「それは、いいことだ。是非やってみたら。やりたいことをやるのが一番だよ」
 と、応援する気持ちで言うでしょう。

 同じ顔かたちをしているので、私たちはつい、相手にも、自分を理解してくれるように求めがちです。

 けれども、それぞれ、頭の中、心の中は、まったく違うということをつくづく実感するこの頃です。
 もともと意識が異なるので、極端な言い方をすれば、相手が、自分の世界を理解することは、不可能だ、とういうことです。

 それは、
「だったら、言ってもしかたがない」
 ということではありません。

 だからこそ、
「意を尽くして伝える」
 けれどもそれは飽くまでも自分のために、という捉え方をする。

 相手に、自分と同じ世界を求めるのは“無理”なんだと自覚していれば、なんとしても「わかってほしい」と食い下がったり、すがったりはしないでしょう。

 もっと、自分と相手を分けて考えることができるでしょう。

 あるいはそうだからこそ、
「私の思いは、こうなんだ。私はこう考えているんだ。私は、こうしたいんだ」
 というふうに、もっと具体的に伝える努力をするでしょうし、また、そんな時間をもつことが必須だということに気づくでしょう。