同じ光景を目にしたとき(2)

同じ光景を目にしたとき(2)

(2)

 頭で解釈すると、一つのことに対して、さまざまな解釈をします。
 どう解釈するかは、自分の基本的な設定によってかなり違ってきます。

 例えば、物事を「私が悪い」という基本設定にすれば、起こっていることすべてを、思考で「私が悪い」まで導いていって、自分を責めることができます。

 思考や言葉は当てになりません。

 言葉で相手と意思の疎通をとろうとしても、ほんとうのところ、それが互いに正確に伝わっているかどうかという点においては、かなり不鮮明です。

 一見、言葉のほうが正確なように思うかも知れませんが、むしろ「感じ方」のほうがより正確です。

 言葉は、同じ言葉を遣っていても、その意味を相手と一致させるのは困難です。
「感じ方」は、誰もが人間の姿形で生まれてくるように、肉体の組織の一部として、「感じ方」の機能は、多少高低優劣はあったとしても、精密かつ正確です。

 私的な言い方をすると、「思考は平面ですが、感じ方は立体的」です。

 思考が絵画だとしたら、感じ方はホログラムです。どこからでも、観察できます。どこを切ってもすべての情報を包括しています。その情報を言葉にするには、どれだけ時間を要しても語り尽くすことは不可能でしょう。

 例えば、相手の表情をみたとき、相手が緊張しているとしましょう。
 どうしてそんなに緊張しているのか。

 腹を立てているけれども、その怒りを抑えて緊張している。
 怖さを隠して怯えながら緊張している。
 ふて腐れて攻撃的な気持ちで緊張している。

 その緊張が、どんな緊張かは、頭で理解しようとするよりは、自分を感じたほうが、より相手の心を知ることができるでしょう。

 相手の言葉に囚われていると、相手の言葉に反応して応えようとするので、相手の気持ちを感じるとることができません。

 また、相手に囚われているので、自分の気持ちを感じることもできません。

 とりわけ、人とのコミュニケーションは、「感じ合う」能力が無いと理解し合うことはできないでしょう。

 感じ合うことができなければ、一人が一方的に話をして、他方は一方的に話を聞く。あるいは、相手を感じることも自分を感じることもできないために、互いにひどい言葉で傷つけってしまう。こんなふうになりがちです。

 前回のテーマにもどると、同じ光景であっても、誰一人として、同じ光景をみているわけではありません。

 どんなに言葉で伝えて「相手にわかってもらおう」としても、土台、違うところも見ているのです。

 こんな視点に立つと、相手に無理な注文をつけて争うことが、いかに不毛であるかということが納得できるのではないでしょうか。 (おわり)

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