どこに価値観を置くか

 自分の気持ちや欲求と、思考との区別がつかないという声を多々聞きま
す。
 他者中心の意識で生きてきた人ほど、自分の気持ちや欲求よりも、他者の言うことに従って生きてきたのですから、わからないのは当然のことです。

 また、そうやって、ちょっと心にひっかかるのは、どうしてでしょうか。

 それは、「はっきりとわからなければいけない」と、考えているからではないでしょうか。
 まさに、それが他者中心になって思考に陥っているということです。

 例えば、こんな欲求があるとしましょう。
「心が疲れてしまっていて、誰とも話したくない」
「こんな状態を知られるのがつらいから、誰とも会いたくない」

 ところが、そんな欲求に気づいたとしても、すぐに、
「どうしたら、こんな状態から抜けることができるんだろうか」
「このまま、こんな状態が一生つづいたら、どうすればいいんだろうか」
 こんなふうに、思考で欲求を打ち消します。

 確かに思考で解決することも沢山あるでしょう。
 論理的に考えたほうが、うまくいくこともたくさんあります。

 けれども、どんなに思考しても、思考するだけでその問題が解決しないとしたら、その思考は、無駄です。

 実際に、
「こんなことをしていて、いいんだろうか」
 という疑問を抱いて、もう、どれくらいの期間が過ぎているのでしょうか。

 たとえば、もう3ヶ月前から考えていた。ということであれば、それで、その問題は解決して、スッキリしたでしょうか。

 例えば頭では、朝起きたら、10分で朝の身支度をして、食事を20分。トレイを10分。夜は食事に1時間。お風呂を30分。5時間寝れば大丈夫。きっかり2時に寝て、7時に起きればいい。

 こんなふうに決めたとして、私たちがロボットのように正確に動くことができれば、それも可能でしょう。
 が、人はそうやって機械的に動くことはできません。

「しなければならない。したほうがいい。できて当たり前」という発想からスタートして、理論的には可能だ。「だから、できるはずだ」と自分に言い聞かせたとしても、できるわけがありません。

「これでいいのだろうか」などと、自分に問いつづけたり自分のやっていることに疑問を抱きながら、また思考をしながら一生を終えることもでき
ます。

 けれども、そんな人生に、ほんのちょっと、「実感する」。これが加わるだけで人生観が変わるとしたらどうでしょうか。

「これでいいのだろうか」の答えが、徐々に見つかるとしたらどうでしょ
うか。

 もちろん「変わる」といっても、イメージで描くような大金持ちや、贅沢な暮らし、何もせずに大金が転がり込む。華やかな生活ができる。人がこぞって自分を賞賛する。有名になる。人気者になる。そんな生活が、一夜にして手に入るというような「劇的な変化」ではありません。

 むしろ私は、個人的には、劇的な変化であれば、多くの人が体験しているはずだと思ってしまいます。

 例えば、家を引っ越す。仕事を辞める。新しい分野の仕事を始める。新規事業を起こす。恋人ができる。結婚する。赤児が誕生する。離婚する。失業する。こんなことも劇的な変化です。

 いずれにしても、「一夜で人生が一変する」という劇的変化を夢見るよりも、
「今まで自分がやっていることを、違った意識で取り組める」
「いままでやっていたことが、3分の一のエネルギーで終わらせられる処理能力が育つ」
「同じことをしていても、10倍、楽しいと実感できる」
「友だちの数は増えなくても、より深いつき合い方に満足できる」
「それをするのが、楽しい」
「ゆっくりとするのも心地よい」
「自分がやっていることに、価値を見出すことができる」
 といった、人生の「生き方、その質」や「価値観」といったものに対する劇的変化のほうを選んでほしいと思う……。

 自分に対する自負心や信頼感を感じ、育てながら、自分の望みが叶っていく。そんな変わり方のなかにこそ、幸せや充足感や満足感があるのではないでしょうか。