自分を大事にしたほうが、相手を傷つけない

 繰り返し言いたいのですが、感情は「情報」です。

 これを頭でわかるのではなく、経験のレベルで実感し、納得していただきたいものです。

 すぐに納得できるものではないでしょう。
 が、感情を情報とコントロールすべきもの、抑えるべきものという捉え方をするのではなく、「情報」として捉えられるようになると、さまざまなことが見えてきたり、合点がいったりします。

 これはもう、体験していくなかで培っていくしかありません。

 感情というと、
「思考とイメージと感情とのの区別がわかりません」
 という人もいます。

 そういう人は、単純に、『快不快。好き嫌い。どっちかわからない』というぐらいの分け方からはじめるのもいいでしょう。

 どちらかわからないという場合は、無理に「自分の気持ちは?」などと追求することはありません。

 感情だけでなく、欲求として感じるもの、五感で感じるものも含めて、「自分が感じる」ことは、すべて、自分にとっての情報です。

 自分が「感じている」とき、それは、単に五感で感じているだけではありません。

 例えば、激しく怒鳴っている人を前にすると、一般的には怖くなって怯えます。
 これは、相手の態度や表情、怒声といったものに、自分の心と身体が反応するからです。

 けれども、それだけではありません。

 怒っている人を前にしたとき、恐怖を感じている自分を自覚することができます。

 ところが、時には、その恐怖が「自分のもの」なのか、「相手のもの」なのか、その境がわからないということがあります。

 自分も怒鳴っている相手を怖いと感じているけれども、もしかしたら、怒鳴っている本人自身のほうが、それ以上に恐怖に怯えて震えている。
 そんな相手の感情を、肌で感じることがあります。

 さらに、もっと「自分中心」になって、そんな恐怖の奥に分け入りながら、自分の感じ方のほうに焦点を当てて感じる感覚を研ぎ澄ますと、たとえようもなく孤独で悲痛な心の叫び声だけがこだまするような、荒涼とした場所にたどり着くことがあります。

 そこでは、五感や感情で感じる以上のことが起こっていて、そんなとき、怒鳴っている相手に対して、憐れみを感じたり愛おしさを感じたりします。

 他者中心になって他者や外界の事象に囚われていると感じないでしょうが、無意識のところでは、誰もがこんな細やかな「感じ方」をしていたり、そのやりとりをしているのです。

 ですから、こんな細やかな感じ方を、自分を大事にするセンサーとして、相手よりも、自分の気持ちを満たすことに活用できれば、例えば、「私がイヤだから、断る」というふうに、決断することや行動することが速くなるでしょう。

 そして、不思議に思うかも知れませんが、その分だけ、争いも減って行くでしょう。

 なぜなら、そうやって、できるだけ早めに、自分のために決断したり行動したほうが自分を守れるだけでなく、自分を守れるからこそ、相手を無用に傷つけることも減っていくからです。