戦うことをやめられないのは

 勝ち負けを争って戦えば、同時に恐怖が生まれます。相手に勝てば恐怖を抱かないかというとそうではありません。

 もし恐怖を感じていないという人がいるとしたら、それはまだ、勝っている状態、あるいは勝とうとしている状態にあるからなのかもしれません。
 あるいは、恐怖を抱いている自分を、まだ自覚できないでいるのかもしれません。

 戦う人を観察していて思うのですが、戦っている人たちは、いわば、それが人生の生き甲斐となっています。

 私個人は、
「できるだけ、戦うことをやめていきましょう」
 と言っているのですが、「戦って生きている人たち」にとっては、それは、生き甲斐を奪うことにもなるのです。

 そのために、心の傾向として、戦うことをやめていくと、だんだん、無気力になっていきます。

 相手との関わり方も同様に「相手に戦いを仕掛けて、相手が反応してくれれば、無意識のところでは安心する」といった具合に、相手とのコミュニケーションのとり方も、戦うことが手段になっているので、「戦うこと」をやめると、人と付き合うことができなくなってしまいます。

 そのために、いっそう、無気力になっていくでしょう。

 それと並行して自覚されるのが“恐怖”です。

 戦いをやめていくと、今度は、これまで蓄積していた恐怖がより自覚されるようになります。

 もしかしたら、そんな恐怖を自覚したくないために、戦い続けているのかもしれません。

 それほど、戦わないで自分を守る方法を知らない人たちは、恐怖を抱いています。

 本人は自覚していなくても、恐怖を抱いています。
 むしろ、自覚していないときのほうが、第三者の眼には明らかに「怯えている」と映ります。

 反対に、本人が「自分が恐怖を抱いて震えている」と自覚できているときには、その怯えが、第三者の目には少し薄らいでいるように映りますし、実際の分量としても減っています。

 この点でも、「自覚する」ということは、自分を癒すための基本だとわかるのではないでしょうか。

 とりわけその恐怖は、例えば老化などによる肉体の不調で戦うことをやめざるを得なくなっていけば、「戦いたくても戦えない」という状態に立たされ、恐怖を自覚したくないために、かえって恐怖が自覚されて、怯えないように見せようとして怯えるという、複雑な状態に陥っていくでしょう。

 戦いをやめようにも、自分を守る術を知らなければ、戦いをやめることはできません。

 戦わないで人を親しくコミュニケーションをとる方法を知らなければ、戦いをやめることができません。

 戦う人は、勝っても負けても常に恐怖に晒されるとわかっていても、なかなか戦いをやめることができないのは、無理ないことなのかもしれません。