年単位での癒やしが必要な人たち
最近とみに、心の傷みは、肉体の傷よりも時間がかかるものだと思うようになっています。
心の傷は形に見えません。
肉体の傷は形に見えます。
つい肉体の傷は眼で見えるために、傷が回復するまで養生します。また怪我をしていると動かせば痛いので、回復するまで動けないことに諦めがつきます。
心の傷は、見えないので、手当なしに、すぐにでも回復させることができるように錯覚してしまいます。
あるとき、いきなり動けなくなった。
動くのが怖くなった。
〇〇するのが怖くなった。
強迫観念であれば、〇〇しないと気が済まない。
もし自分がこんな状態にあるとしたら、それは、「数十年間、自分を愛して来なかった結果」です。
そうなるのは、「いきなり」でもなんでもありません。
日々、自分を愛してこなかった。自分の心を無視してきた結果です。
むしろ、それが「いきない」というふうに映るとしたら、そういうふうに映ってしまうこと自体が問題です。
その「いきなり」の前には、自分の心を無視して生きてきた「何十年間」があります。
いきなりということはないのです。
その状態には、たくさんの痛みがまだ解消されずに蓄積していたり滞留していたりします。
それらを癒す時間が必要なのです。
自分が自分を愛してこなかったのですから、人によっては、10年、20年という長い年月が必要でしょう。
社会的にみると、その間、自分が活動していないように感じてしまうこともあるかもしれません。
焦ったり不安になったりするかもしれません。
逆に、そういう人ほど、自分を愛していません。
自分を愛するには、「“ゆったり”が大事なんだ」と思えるようになれるかどうかです。
個人的には「社会性」というところから可能な限り自由でいたいと望んでいます。
自分の人生をどうして社会に合わせなければならないのでしょうか。
反対に、自分を愛そうとせずに、社会や人や他者に合わせて生きてきた結果、そうなっているのだと言わずにはいられません。
社会的な眼で「何をしているか」で自分の価値を判断するのではなく、自分にとって何が重要なのかは、あなたの今のその状況が、教えてくれています。
もしあなたが、非常に苦しい状況に陥っているとしたら、それは、自分を粗末にしてきた結果です。
そうであれば、今、社会的に何をしているかではなく、世間を見返すことを夢想することではなく、「社会的に何もしていない」と思えたとしても、「何もせずに停滞している」ように思えたとしても、自分を癒す(自分を愛する)ことに時間をかける。ここに価値を見出してほしい、と心から願わずにはいられません。 (つづく)