親とまったく同じことをしている

 親しい人と別れてしまったというとき、
「長年つき合っていたのに、どうして、あんな些細な理由で、別れてしまったのだろうか」
 という経験はありませんか。

 振り返ってみると
「あのときは何に血迷って、あんな極端な決断をしてしまったのだろう。今でも、その理由がわからない」
 という人もいるかもしれません。

 その時々では、気づかないことがたくさんあります。
 他者中心であれば尚更、他者に意識を向けているために、相手を傷つけても、自分が傷ついていても、それに気づきにくくなります。

 あるいは、「傷つくこと」に慣れてしまっていると、それを傷みとしての自覚もできなくなってしまいます。

 例えば親が子供を小突くというのが日常茶飯事であれば、子供は小突かれても、それが当たり前の感覚になってしまって、「傷つけられた」
 という認識は薄くなってしまうでしょう。

 それでもそれは、心が傷みを感じていない、ということではありません。
 自分では平気であるかのように思っていても、その傷みが解消されていなければ、無意識の領域に逃さず蓄積されていきます。

 ある女性もそうでした。
 例えば、彼女は二人で話しているときに、ほんのちょっとでも相手が自分の話を無視したと感じると、途端に傷ついて、常人には理解できないほどの激しさで激情に駆られた言動をとります。

 気の置けない仲間であれば、
「あ、ゴメン。何? 他のことに気を取られてて、聞いてなかった。もう一度言って」
 と言えばすぐに終わってしまうような場面でも、彼女はそうではありません。

 あたかも彼女の人生がうまくいかないのは、その相手のせいであるかのような激しさで、相手を罵ったりします。

 そんな彼女の予測を超える反応に、多くの人が彼女に近づくのを恐れます。

 まさにそれは、彼女の父親の姿でした。
 彼女自身が、幼いころ、
「まったく理由がわからなくて、いきなり激しく怒り出すので、いつも戦々恐々として、息を殺して生活をしていました」

 自分では気づかなくても、自分の気持ちを殺したり、鈍感にしてしまうと、小さな傷みがどんどん積もっていきます。

 それが飽和状態になっていると、小さなことをきっかけとして、それが一気に憤怒や憎しみとなって噴き出します。

 どんなに親しく付き合っていても、その相手と「些細なこと」が起これば、それをきっかけに噴出させてしまい、その結果、
「長年つき合ってきた人と、些細なことで縁を切ってしまう」
 ということをしてしまうのです。

 こんなふうに「突発的に極端な言動をとってしまう人」ほど、自分の小さな傷みに気付かずに、蓄積させている人たちなのです。

 実のところは、まず自分が発信源で、相手を傷つけたことを気づかずに、相手の反応を見て、その相手の反応に傷つく、ということが真相である場合が多々あります。