不必要な罪悪感

 私たちが一般的に感じている「感覚の感じ方」は、もしかしたら間違っているかもしれません。

 例えば、世間一般では「罪悪感」は、まるで“もっていなければなら
ないもの”のように捉えられているのではないでしょうか。

 罪悪感ということをどう定義づけるかによって異なると思いますが、私なりの解釈の仕方でいえば、「罪悪感」は、果たして必要なのだろうかと疑ってしまいます。

 もっとも、罪悪感と良心の呵責や傷みとは混同されがちです。
 これは、似て非なるものです。
 この違いについては、テーマが逸れるので、別の機会に譲ります。

 贖罪という言葉もあります。
 罪を贖うということですが、この“罪”も、罪という言葉が適しているのかどうか。
 罪というよりは、自分が行動したことの結果の責任を負う、果たす、という言葉を使ったほうが、個人的にはスッキリします。

 これは、自分の撒いた種は、良いものも悪いものも、自分の責任において刈り取るという解釈の仕方のほうが、納得できます。

「罪」を罪として「罪悪感」を覚えるというのは、「自分の撒いた種の責任を取る」というよりは、罪の意識を覚えることそのものが、目的となっているように感じます。

 罪悪感を覚えることを目的としてしまうと、「罪を犯した」と感じたら、
 その罪を一生背負って、罪悪感を抱き続けなければなりません。

 それはまるで、「私は不幸でなければならない」と言っているようなものです。

 しかもその罪は、罪を目的としているために、贖われることはありません。
 それを罪として自分を罰しつづけることが罪悪感ですから、その罪悪感から自分を解放することができません。

 それは、罪の意識を感じながら、その責任を果たさない、ということと同じです。
 実際には、罪悪感の意識が強くあるほど、自分を責めつづけるので、動こうとしないでしょう。

 しかも昨今は、あらゆることに「罪悪感」を覚えるような社会になってしまっています。
 それは、多くのことを「しなければならない」という思考からスタートさているからです。

 すべてのことに対して「しなければならない」と思っていれば、それができなかったり、したくなかったら、それだけで罪悪感を覚えることになります。

 例えば親の期待に応えなければならない、と思っていたら、期待に応えられないことに、罪悪感を覚えるでしょう。

 けれども、親が自分に期待にするかどうかは、親の勝手で、本来、自分とは関係のないことです。
 こんなふうに捉えることができれば、親のためよりも、自分のために生きることに、罪悪感を覚えることはないでしょう。

 親もまた、親が「子供は親の期待に応えるべきだ」と思っていれば、子供が親の期待通りにならなければ、子供を責めたくなるでしょう。

 けれども、子供の自由を尊重したい。子供は、親のためよりも、自分ために生きてほしい」と願う親であれば、その親は、
「子供が自分の人生を、自由に生きてくれることが嬉しい」
 というふうに感じるでしょう。

 こんなふうに「しなければならない」で生きている多くの人が、まったく不必要な罪悪感で苦しんでいて、罪悪感そのものが、すでに当てにならないものになっているようです。