満足する“感度”が鈍くなっている

満足する“感度”が鈍くなっている

 一人っ子は損する。
 兄弟姉妹がいたら、末っ子は可愛がられるから、得する。
というようなメールをいただきました。

 確かに一人っ子というのは、兄弟姉妹で学べるであろうことを学べないという点においては、人との関わり方を学んでいないと思います。
 けれども、「末っ子が幸せ」というのも思い込みです。

 一人っ子であれ、末っ子であれ、得することもあれば損することもあります。一人っ子は損して、末っ子だと得する、ということはありません。

 ほんとうのところ、一人っ子あるいは末っ子ということが問題ではありません。

 一つは、物事を「損得で考えている」ということ。
 また、その損得の基準も、現実的でないということ。

 どうして、そんなふうに現実的でないことを考えてしまうのでしょうか。

 それがまさに、「思考」に囚われているからです。

 物事を「思考」で捉えると、どうしても損得に囚われてしまいがちです。

 けれども、物の価値というのは、得するから満足し、損するから不満足ということだけではありません。

 例えば、人と一緒にいるとき、相手と一緒にいるその時間を幸せに感じていれば、心が満たされて満足します。

 けれども、相手と一緒にいる時間を損得で捉えれば、報酬が発生しないので、損する、というふうになってしまいます。

 では、そんな人が、相手と一緒にいることで「報酬」が発生すれば、得したと思うでしょうか。

 得したと思うこともあるかも知れませんが、常に「損する」ということを考えている人は、そうであっても、
「1分でも時間を超過すると、損する」
 と考えたり、相手のためにお茶を入れてあげることも損する、というふうに、「損する部分」を拾って歩くでしょう。

 この場合は、捉え方と感じ方の問題です。

「思考」に囚われると、損得勘定になりがちです。
 しかもその思考は、「損する」ことに焦点が当たりがちです。

 けれども例えば、例えば、お茶を入れて“あげたい”という気持ちがあって、お茶を入れてあげたとき、相手がそのお茶を美味しそうに飲めば、それだけで嬉しい気持ちになるでしょう。

 物事を損得で捉えるだけでなく、私たちには、損得抜きで「他者に貢献したい。助け合いたい」という欲求があります。

 それが満たされても、満足するのです。

 つまりそれは、自分の「感じ方」の感度の問題だとも言えるでしょう。

 しかもそれは、ポジティブな感じ方の感度です。

 思考に囚われていると、そんなポジティブな感じ方の感度の機能も低下してしまいます。

 もう一つ、損するという思いが湧くのは、どうしてでしょうか。

 それは、自分が「損する」と感じたときに、「損しない」ように動くことができないからではないでしょうか。

「損する」と感じたとき、もし自分が「損しない」ように行動できれば、その後で損したとは思わないでいられます。

 ですから、本当に重要なのは、「自分が損する」と思ったときに、それを回避できるように、あるいは自分が損しないように行動できない、
ということなのではないでしょうか。

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