「自覚する」ことの意味(2)
(2)
自覚するといのは、「自分と向き合うこと」でもあります。
なぜなら、自分を見なければ、自覚することはできないからです。
自分自身や自分の行動を一つ一つ否定していたり、責任をとることを恐れていても、自分を見ることはできないでしょう。
「向き合う」ということを、勘違いしている人たちが多いに違いありません。
あなたは、「向き合う」ということを、どういうふうに解釈しているでしょうか。
厳しい視線を自分に向けて、自分の劣っている点や悪い点を洗い出す。
逃げたくなる気持ちを抑えて、自分の醜いところ、弱いところを直視しなければならない。
自分に至らない点があったら、身を引きしめてしっかり反省し改善する。そして正しい姿勢で自分を律する。
こんなところでしょうか。
けれども本当に、これが自分と向き合いということなのでしょうか。
私の捉え方は違います。
自分と向き合うというのは、自分を知るということです。
この「自分を知る」というのは、自覚するということとも共通します。
そこには、自分を否定したり裁いたりする姿勢はありません。
それは、どんな自分でも認め、いたわり、受け入れるということです。
例えば、人に対して激しく腹を立てていれば、
「ああ、そうか。私(俺)は今、あのことで腹を立てているんだな」と自覚する。
ある特定の人間に対して、激しい憎しみを抱いていて、今まさにそんな相手の姿や相手の言動を思い出して、激しい憎しみの感情が湧いてきたとしたら、
「あ、私、今こんなに相手を憎んでいるんだ」と自覚する。
これが「自分と向き合う」ということなのです。
もちろんそれは、自分を否定するために、ではありません。
「ああ、私は腹を立てているんだ。憎んでいるんだ。恨んでいるんだ。悲しんでいるんだ。失望しているんだ」
というふうに、そんな感情を抱いている自分をいたわるために、です。
そうやって自覚した瞬間、少し我に返ったような気分になって、爆発しそうなほどに膨れあがっていた感情が、風船が萎むように小さくなるはずです。
どうして、そうなるのでしょうか。
それは、そうやって「自分の感情や気持ちに気づくこと」が、自分を愛することだからです。
そうやって、そんな自分を認め、「いたわったり、慈しんだり」することが、自分を愛することだからです。
つまり、それは「自分が、自分を愛した瞬間」です。
自分を愛した瞬間だからこそ、その感情が収まり、我に返ったような気分になるということなのです。
これが、「自分と向き合う」ということなのです。 (おわり)