自分を守るための「責任」
「責任」という言葉を聞くと、耳が痛いと感じる人が少なくありません。
職場でも、なんとなく、「みんなで責任を取り合う」というような雰囲気があります。
みんなで責任を分け合えば、なんとなく怖くないような気分がするでしょう。
けれども、その「みんなが」の意識は、ともすれば、
「誰かに責任を転嫁する」
「誰も責任をとりたがらない」
というふうに、無責任にもなりかねない意識だとも言えます。
けれども、実は、そんなふうに責任をとることを恐れてしまうのは、
大多数の人たちが、「責任を過剰に捉えている」からに過ぎません。
とりわけ他者中心の人は、自分が「したい、したくない」よりも、
社会や外側を基準にするために、「それができるのが、
当たり前」になってしまっています。
当たり前になっていれば、それに対する「責任」が発生します。
そのとき、その「当たり前」ができなければ、自分を責めたくなるでしょう。
あるいは、それを「したくない」と感じれば、罪悪感を覚えることになります。
本当は、「したくない」ことに、罪悪感を覚える必要はないことです。
むしろ、自分の欲求を「したくない」と感じられることは、
好ましいことだと言えるでしょう。
なぜなら今は、自分の欲求すら、わからないという人が増えているからです。
にもかかわらず、そんな欲求を無視して、
「しなければならない」や「それができて当たり前」になればなるほど、
過剰に責任をとることが増えていくでしょう。
過剰に責任をとる、というよりは「過剰に責任を感じる」という言い方の方が、
より適切です。
もちろんそれは、本当に自分が果たすべき責任ではありません。
勝手に自分が「それをすべきだ」と考えてしまっている、無用の責任です。
しかもそうやって、過剰に責任を感じれば、
どんどん責任をとることが怖くなっていくでしょう。
自分の選んだものでないことにまで責任を押しつけられたら、
責任をとることが怖くなってしまうのは、当たり前のことです。
皮肉なことに、それは誰かが自分に押しつけているわけではなくて、
自分が勝手に自分に押しつけてしまっている責任です。
ところで、私自身は、「責任」というのは、違ったとらえ方をしています。
それは、責任を自覚することは、むしろ「自分を守ることになる」からです。