自動的になっていると痛みに気づかない 

 

他者中心の生き方をしていると、他者のことや周囲のことに囚われたり、
周囲の価値や判断を基準にしてしまうので、自分ことが疎かになってしまいます。

あるいは、外側の基準に従おうとするので、行動するとき、それに従って、
自動的に動いてしまうことが多くなるでしょう。

例えば日本人は、列を作るのが好きだと言われています。
お店で列を作って並んだり、バスや電車でも並びます。

整然と、まっすぐ並ぶわけではありませんが、並んで順番を待つので、
諸外国から行儀がいいと言われたりします。

みんなが並んでいると、それを見ただけで「どんなふうに並ぶか」
を即座に理解します。

こんな整列は、幼稚園や学校や、もしかしたら保育園のときから、
並ぶように練習するので、「並ぶ」というのは、
ほぼ自動的になっているのではないでしょうか。

「このラーメンが食べたい」
「この商品が買いたい」
だから、並ぶ、というふうに、ほとんど自動的にそう行動します。

他者中心になって自動的になってしまうと、使うのは主に「思考」です。

自動的に並びながら、頭の中では、別のことを考えることができます。

音楽を聴いたり、ゲームをしたりと、自分以外のことに夢中になることもできます。

けれども「自動的に並ぶ」というパターンを崩すことはない。

そうやって“自動的”になってしまうと、
それをするのが当たり前だから。
それができるのが、当たり前だから。
というふうに、自分が「それをしたいのか、したくないのか」と、
一度自分のほうに立ち戻って、自分の欲求を見つめることをしなくなっていくでしょう。

誰もが、「傷つくこと」を恐れます。
にもかかわらず、自動的になってしまうと、
自分の痛みにも鈍感になってしまいます。

典型的なのは、争うということです。

「私と相手」が、激しい勢いで争っているとしましょう。
自分中心的に捉えるならば、「そんな激しい争い」には、なりません。

それは、「自分が傷つく」と知っているからです。

けれども「自動的に反応する」癖がついている人たちは、
相手が刺激(攻撃)を与えれば、それに自動的に反応(言い返す)します。
                           つづく