悠久の命 

私は昔より、物事を長期的に捉えるようになっています。

歳をとると、保守的になっていくものです。
年齢的なものもあるかと思います。
確かに、冒険心で挑戦するよりも、いま得ているものをなくすまいと、「守り」に入るような心境にもなるのでしょうか。

いま、ヒラリーさんは、どうしていらっしゃるんでしょうか?

米国での大統領選挙戦では、読者の方々がご存じかどうかわかりませんが、ヒラリーさんの体調は、一般的に知られている以上に重篤であったという情報がネットでは飛び交っていました。

あんな状態では常人だったら、
「ベッドでゆっくり療養したい」
あるいは、
「のんびりと、余生を送りたい」
と願うものでしょう。

彼女の意志とは関わりなく、そうできない事情もあったと推測しています。

地位や立場が上であろうが下であろうが、
いったん「強固な支配関係」の歯車の一つに組み込まれてしまうと、
個人の意志よりも、全体のほうが優先させられます。

あんなにまで妄執しなければならない理由とは、なんであるのか、
日本の中枢にある方々も含めて、考えさせられました。

そういう意味では、彼女が病気を理由に、
そんな強固な支配関係の中から降りることができれば、個人的にみれば、決して悪いことでもないと思ったものでした。

ときおり、人は、
「どうして、自分は、こんなことをしているのだろうか」
と疑問に思うことがあるのではないでしょうか。

「こんなことをしていて、何になるのか」
「自分はいったい、何を目指しているのか」
と。

こんなとき、私は思うのです。

想像してみてください。

もし私たちが「悠久の命がある」存在だとしたら……。

信じている人も信じていない人も、想像であれば、できるでしょう。

そう想像したら、どうでしょうか。

いまあなたが、何かに必死にしがみついているとしたら、
それは、決して手放せないものなのでしょうか。

いま、あなたが望んでいることに価値がありますか?

今の状況が不安定だと、焦りやすくなるものですが、
もし私たちに「悠久の命がある」としたら、
いま自分がしがみついているものが、
果たして本当に重要なものなのでしょうか。
本当に、価値があるものなのでしょうか。

今すぐに、成し遂げるべきものはない。

「失うものも、何一つない」
そう思いませんか。

もちろん、「失敗」なんて言葉は、一切、ない。

こう思うことができれば、焦って成し遂げるべきものは、何一つもない。
急ぐこともない。

「悠久の生命」の中で、自分にとって価値あるものを目指す。
それを生きる指針とする。

そうであれば、単に「いま」に集中して、
「もっと自由に、やりたいことをやる」
あるいは、
「いまできることを、する」
あるいは、
「いま、したくなかったら、しない」

これしか残らないように思うのです。