自分の「自由」を実感しているか

この前、ネットの記事で、「大人の引きこもりを調査する」というような記事が出ていました。
内容をみてないので、それについてはコメントできないのですが、
私自身は、もう、かなり昔から、そのことは言っていました。

その傾向は、相談に訪れる人たちの傾向によって判断できます。

カウンセリングで語られる内容の中に、
「未来の姿」があらわれるのです。

それを情報とすれば、未来がどうなるかの予測もつきます。

ただ、ひきこもりという言い方には、抵抗があります。

なぜならそれは、社会を基準にしている言葉だからです。

そして、社会に適応できるかどうかを基準にした捉え方だからです。

社会に順応できるのが「正しい」としたら、それに順応しない人は、
不適切ということになるでしょう。

では、もし「社会のほうが不適切」だとしたらどうでしょうか。

今の社会は、なんだかおかしいぞ。
だんだん、おかしな方向へと進んでいるぞ。

ゼロ歳児から保育所に“出勤”して、
社会に適応し順応するように躾けられる。
それに順応できない子は「悪い子」になる?

こんな社会の基準のほうがおかしいぞ、という捉え方をするなら、
ひきこもりという言葉の使い方のほうが不適切でしょう。

また、「自由」という観点からみるとどうでしょうか。

ゼロ歳児から社会の基準や決まり事に適応できる人間になるというのは、
非常に不自由な生活です。

「自由」という観点からすると、無理矢理、
社会の型に自分を合わせるのは「嫌だ。苦しい」と感じるのは、
至極もっともなことだと言えるでしょう。

もしあなたが、ひきこもりと言われ兼ねない状態でいるとしたら、
あなたは、そんな自分を、どういうふうに認識しているでしょうか。

「適応できない自分はダメだ」
でしょうか。それとも、
「私は、もっと自由に生きたい」
あるいは、
「もっと自由な生き方をめざすぞ」
となっているでしょうか。

前者の意識で生きるか、後者の意識で生きるのかでは、
まったく違った未来となっていきます。

その差は、自分が今、その「自由」を、実感しているかどうかでも、わかるでしょう。

例えば、社会を基準にして生きなければ“ならない”となっている人は、
どんなに寒くても、寝不足でも会社に「行かなければならない」と、
自分に号令をかけます。
熱が出ても、休むことすらできない人もいるでしょう。

そんな環境をやめている人は、寒いときは家を出なくていいし、
眠たいときはいつでも眠ることができます。

では、もしあなたが、そんな自由な環境にいるとしたら、
あなたはそれを、
「私は、こんな自由を満喫できて、幸せだなあ」
と心から喜んでいるでしょうか。

「こんな寒い日は、外に出なくてもいいのだから、
なんて幸せなんだろう」
「こんなに朝寝坊できて、なんて幸せなんだろう」
などと、そんな自由を手に入れている自分に気づき、その都度、
それを喜んでいるでしょうか。

もしそうでないとしたら、あなたに必要なのは、
あなたが“すでにそんな自由を手に入れている”ことに気づき、
それを感謝することなのかもしれません。

こんなふうに、もしかしたら多くの人が、自由であるときも、
その自由を肯定できないぐらい、
縛られた生活をしているのかもしれません。

そうやって、自分が自由であることさえも気づかないとしたら、
「束縛されても当たり前」という、
隷属的な生活に慣れてしまう人たちが、どんどん増えていくでしょう。

実際に、
「自分で考えるのは、面倒くさい。黙って人に従っていたほうが、楽だ」という人たちが、着実に増えているのです。

ちなみに、今日から年号が「令和」となります。
年号が変わるから、状況も変わる、ということはありません。

令和の夜は雨でした。
午前には、晴れていましたが、また、午後には雲行きが怪しくなって、雨が降りました。

これがそのまま、令和の流れとなりませんように。