他者中心の人たち(1)

  
「他者中心」になって、他者や自分の周囲のことに気を奪われていると、
自分のことが、まったくわかりません。

自分が他者からどう映っているか、
自分の顔が見えるわけではないので、なおさらです。

だから、自分を知るには、「感じること」が不可欠です。

言うまでもありませんが、他者中心になってしまうのは、
他者や社会のほうを基準にして、それを自分の判断基準とするからです。

他者や社会を基準とすれば、
絶えず外側の状況を窺っていなければなりません。

窺うだけでなく、外側を基準にして、
「これでいいんだろうか。間違っていないだろうか。
自分では好判断しているけれども、ほかの人はどうだろうか」
などと、絶えず他者と自分とを比較していなければなりません。

かといって、自分が他者と違っても、
「私はこれでいいんだ」
とは言えません。

常に、自分より他者のほうが、言わば「正しい」わけですから、
外側の正しさに合わせて、絶えず修正を迫られます。

かといって、その「正しさ」が、自分にとって益をもたらすか
というと、そうでもありません。

むしろ、自分の気持ちや欲求や感情を無視しているので、
自分にとってはデメリットに作用することのほうが多いでしょう。

例えば、その一つが、自分が他者に対して
「一体、どういう振る舞いをしているか」ということです。

相手が、自分の振る舞いを、親切に指摘してくれることは、
滅多にありません。
仮にあったとしても、指摘されれば、大概の人たちは、
不快に思うでしょう。

結局、「自分が他者にどういうふうに映っているか」を知るには、
人が自分から離れていってしまう、
という結果でしか、推し量ることができません。

自分の意識は、自分の態度や振る舞いや表情に、
しっかりと表れています。これに、言葉をプラスすれば、
丸ごと自分自身です。

どんなに心を隠しても、誰もが、自分丸出しで人と接しています。

それに気づかないのは、自分の姿を客観的に見ることができない、
自分自身だけなのかもしれません。

だからこそ、「自分を感じる」必要があるのです。

自分を感じるのは、「基本」です。       

感情を感じる。
自分を感じる。

「そんな必要が、どこにあるんだ」
と、感情的になって言う人がいます。

「相手を見張っていないと、傷つけられる。攻撃される」 
と、険しい表情をして荒々しく言う人がいます。   つづく