無関心は「同意」です
どんなに考えても、問題が解決しないときは、
無意識のところで「行動するのが怖い」と思う意識が隠れています。
怖いから、思考でなんとか解決しようとするのです。
そんな自分の恐れに気づかずに、思考に囚われていれば、
「もう、考えるのは、面倒くさい」
「もう、何も考えたくない」
となっていくでしょう。
あげくの果てに、
「だから、もう、黙って相手の言うことに従っていたほうがラクだ」
という人たちが増えています。
ところが、その一方で、現実は、徐々に、
「従っていた方が、ラク」という社会ではなくなってきています。
黙って従っていれば、会社が、最後まで面倒みてくれるわけではありません。
黙って従っていれば、国が、死ぬまで保証してくれる、
というわけでもなさそうです。
黙って従うというのは、同時に「物事に無関心になる」
ということでもあるでしょう。
自分の興味のあることは、する。
それ以外には、関心を示さない。
しかしその、興味のあるものも、自分が創造したものではなく、
テレビの番組のように、誰が提供して、
その中から選択するというふうに、自分に選択権があるように思えて、
実は「ない」というのが実態ではないかと思うのは、
私だけでしょうか。
意識の点から言うと、「無関心」と「自覚する」では、
まったく異なる人生となるでしょう。
無関心というのは、相手のすることに「同意する」ということです。
相手が「それがほしい」と主張すれば、
「はい、構いませんよ」というようなものです。
「結果は、あなたにすべて委ねます」
ということなのです。
その後で、「それは、私のものだから、返してくれ!」
と叫んでも、後の祭りとなります。
「無関心」というのは、例えば、道路を渡るとき、
左右も確認しないで、渡るようなものです。
それでも事故に遭わないのは、車のほうが注意しているからでしょう。
「自覚する」というのは、車が左右からきているかどうかを、
「確認してから、渡る」ということです。
往来の動きを、しっかりと認識しています。
今の社会が、どんどん生きづらい方向へとつき進んでいるのは、
そうやって「無関心」な人たちが増えている結果なのかもしれません。
そういう意味では、社会の生活環境が悪化しているとしたら、
それはそうなることに「私たちも同意している」
と言えるのではないでしょうか。
※(明日は選挙です。無関心は、自分の未来の決定権を、
為政者に預けてしまうことを意味します。)