時代が、人間軽視に傾いている

カメラマンの姪っ子が、賞をとって上京してきた。
ふと、地震のことが蘇った。

今年も、4月14日に、九州地震の追悼式が行われた。
地震から3年経っている。
私も熊本出身なので、当時のことを振り返ると、
諸々の思いや感情が湧き起こる。

当時、式に臨んだ安倍首相は、当時、
追悼の辞で「政府一丸となって全力で」や
「災害に強い強靭な国づくりを」という言葉を使っていた。

今年も「政府一丸となって全力で」という言葉を遣っていた。

安倍首相の追悼文には、しばしば
この「一丸」や「強靱な国」という言葉が入る。
(毎年、セリフがほとんど変わらないという話もあるが)

どんな言葉を遣うか。
それは、自分の意識の根底から、選ばれる。

「強い国」「強い日本」。シリア攻撃を「高く評価する」。
トランプさんを「誇りに思う」。

安倍首相は、こんな言葉をたびたび遣う。
『強い』という意識が、彼の根底にあるのは、明らかだ。

「信念(自分の強い思い)」は、それを目標とするために、
しばしば「結果」も、そうなる可能性が高くなる。

少なくとも、自分の信念を土台にして、その目標のために選択し、
行動していく。そして、自分の信念通りの結果を、
自分が導き出していく。

例えば、この「強い国」というのを信念としてみよう。

この強い思いを根底において、「日本という国」を一望すれば、
どう見えるだろうか。

信念で言動は決まっていく。

「強い国」をめざす。
では、そのために、民はどうあるべきか。

強い国のために、「一丸となって」。
強い国のために、教育勅語を。
強い国のために、銃剣道を。
強い国を目指して、「災害に強い強靭な国づくりを」。
強い国を目指して、富国強兵を。

言葉よりも、その響きだ。

彼の口から「強い国」という言葉が出るとき、その言葉ではなく、
「どう感じるか」に焦点を当てれば、独裁的な立場から命令を下す、
強烈な意識を感じないではいられない。
もちろん、自分の立つ位置は、安全地帯だ。

そんな意識から民をみれば、
「そのためには、多少の犠牲はしかたがない。国のために犠牲になるのは、国民の義務だ」
「個人よりも、全体だ」
「有事に備えて、いつでも戦う準備をしていなければならない」
そう聞こえる。

ある本を読んでいても、「誤差の範囲」という言葉が印象に残った。

ある場所を攻撃して、巻き添えを食って亡くなった人がいても、
誤差の範囲(ほぼ正確だった)で処理されてしまうのかと思うと、
やるせない。

人間の尊厳もへったくれもない。
人の命なんて、塵芥のように小さい。
こんな、「人間軽視」が、当たり前の時代になっていくのだとしたら、
恐ろしいことである。

しっかりと「個」をもっていないと、自分を守れない時代が急速に、
訪れつつある。そんな気配を肌で感じる。

未来がどうなるか。ますます、個々の自覚とその選択にかかっている。