本当に望んでいるのかわからない

自分がこの仕事を、あるいはこの人を「好きかどうか、わからない」
というメールをいただきました。

まず、「好きかどうか」を厳密に決めなければならないのでしょうか。

あるいは、「絶対的に本当に望んでいるもの」というのが、
あるかどうか。

たとえば、「恋人を愛している」としても、
その人を絶対に100%ということはあり得ないでしょう。
お互いに好きな部分と嫌いな部分がありますし。
 
要は、その分量だと、私は思うのです。

そして「好き」と「嫌い」の分量で、「好きの分量」が
はるかに優れば、結婚する。「嫌いの分量が多ければ」まだ、
結婚しない。あるいは、保留。別れる等々。
つまり、それは、
自分の決断のための分量ということになるでしょうか。

たとえば、「好き」でも、その好きの分量は、
1パーセントから100パーセントまであるでしょう。

また、ゼロパーセントだからといっても「嫌い」とは言えません。
「ほんとうに好きかどうか」でいえば、
その「好き」の分量が増えていけば、とっても好きになるでしょうし、
分量が減って行けば、「好きかどうかわからない」になるでしょう。

つまり、その「分量」の加減が、
自分の中ではっきりしていけばいいということですね。
その加減で決断する。

「でも、その分量が、いまいひとつ、わからないんです」
という場合は、五分と五分ぐらいに考えましょう。

その五分五分の分量を変えるには、
「具体的な行動をする」ことです。

たとえば、彼に「二人の将来についてどう考えているのか」
という問いを、怖くて彼に対してできないでいるとしたら、
それを聞いてみる、といった具合に。
 
しばしば、そうやって、
「本当の私は・・・」
「本当に好きかどうか」
「この仕事は本当に」
といった悩みを抱えがちなのは、
具体的な「小さな行動」をしていないからです。

そういう意味では、私自身は、
観念的な事柄も、哲学的な事柄も、抽象的な事柄も、
多くの事柄が、
「具体的なものや行動」に置き換えることができると、思っています。

それをしないから、あるいはそれが見えないから、
物事が、形のない漠然としたものに感じてくるのだと。

その「漠然と」の最たるものが、自分の思考にとらわれて、
あれこれと「思考で悩む」という、いわば「思考癖」。

これをやめて、あるいは、やめるために、
「その瞬間瞬間の私」というとらえ方ができれば、
そのときそのときの自分のすべてを「感じ、実感する」ことが
できるのではないでしょうか。

たとえば、彼に「訊くとき、怖かった」。その最中、震えていた。
でも、訊いて良かった。気分がスッキリした。安心した等々。

そこには、
「ほんとうに望むものは」
「これは本当に好きかどうか」
という思考は、ありません。
自分のあらゆる感覚、五感、感情を総動員して感じることのできる、
経験的な実感の充実感や満足感です。