嫉妬したとき       

例えば、意中の人が、隣席の女子と楽しげに話しはじめたとき、
私が嫉妬してしまったら・・・言葉をかけて帰ろうと思いました。
が、その行動が彼との距離を縮めるかといったら、疑問です。
そんなとき「話に割って入る」か「その日は耐える」か。
“帰る”“入る”“耐える”も、感情にフタをするような気がしますが、
自分中心な女性が嫉妬すると、どんなふうになるのでしょうか?

(返信)
まず、自分中心というのは、学校の試験のように、
この点数以上だったら、自分中心で、この点数以下だったら、
他者中心というふうに、一定の形や、
レベルがあるわけではありません。

より自分中心という言い方はできますが、その自分中心にしても、
以前も書きましたが、私自身も常に発展途上であって、これで、
満点という世界はありません。

自分中心というのは、自分の意識が、自分を核としているか、
あるいは他者を基準とした見方をしているか、
その意識の状態を指します。

例えば、このケースでいえば、わかりやすいと思います。

「自分中心の人が嫉妬すると、どんなふうになるか」
自分中心の人は、嫉妬しないということでは、決してありません。
それを目指したりもしません。

もちろん、自分中心度によって、嫉妬のレベル、質はあります。
むしろ、自分の中で、その嫉妬のレベル、
質の変化を見届けられるのが、自分中心でしょう。
 
また、その対応として、
“帰る”“入る”“耐える”
これはどれでも、いいのです。

自分が、そのとき、どうしたいか。
自分がそのとき、どうすれば、もっとも心がラクになるか。 
どうしたほうが、自分の感情を解消できるか。

“帰る”“入る”“耐える”
これらを、すべてやってみることもいいでしょう。

例えば、そのとき、“私”は嫉妬して、
何もアクションを起こせなかったので、帰ることにしました。
このとき、自分の中にある、
どれだけ嫉妬の感情を認めることができるか。
この嫉妬の中に、他のどんな気持ちが潜んでいるか。
その気持ちを自分が、どれだけ自覚することができるか。

あるいは、「私は帰ることにした」と決めたとき、その決断を、
自分自身が、自覚して、どれだけ認めることができるか。
これは、とても重要です。

他者中心的に相手に負けた気分で帰るか、
自分の気持ちや行動を受け入れて帰るかでは、全く、
意味合いが違ってきます。

また、その同じ場面で、帰るとき、黙って帰るか、一言、
声をかけるか。
一言言葉をかけるとしたら、どんな言い方をするか。
その言葉は、誰に向かって言うか、彼のほうか、女子のほうか。
どんな姿勢で言うか。逃げ腰か、向き合ってか、
斜めになって言うか。言葉の響きはどうか。
その言葉の響きが、自分にとって、気持ちよい言い方か。
卑屈な言い方か。

というほどに、どういう選択をしても、小さな場面場面において、
「自分中心」であろうとするレッスン箇所は、随所にあります。

どうすることが100点満点の自分中心なのか、を問うのではなく、
基本は、どうすれば「私を愛することができるか。
私を解放することができるか」です。
自分中心になればなるほど、新しい自分の発見があるので、
自分が面白いのです。
もちろん、そうなっていくにつれて、自然と、
あらゆる世界の扉も開いていきます。