支配と依存心

Wさんから、「私の中に潜んでいる、
支配欲求とか依存心に悩んでいます。」という相談を受けました。

人間関係というのは関係性なので、
自分がある事象に悩むとしたら、
相手にもそうさせる事象があるということも頭にあります。

相手が自分の想いに同意してくれないと腹が立つのです。
これこそ、相手が許してくれないとしてはいけない
と思いこんでいるパターンなのかなぁと思ったりします。

相手の意見があるように、私にも意見があるんだ。
したがわなければいけないわけではない、
という感覚が掴めずに苦しいのかなぁと思ったりします。

自分のことを自分で認めるということが
感覚としてわかっていないのかな
と思います。
(今読み直していて気づきましたが、その分量が少ない、
ということかなとも思いました。)

自分にも想いがあるように相手にも想いがあるのだ、
という言葉をつぶやくと苦しくなります。
相手のことも考えてあげなければならない、
という義務感が襲ってくるのです。

相手にも想いがあるように、私にも想いがあるのだと思うとラクです。
真逆です。

世間の常識ではルールがあるけれど、
私の中での基準が少しずれているようで、

例えば、赤信号。
赤信号でも、安全だと完全にわかっている場所や、
短い横断歩道では信号無視をすることがあります。

社会ルールでは、信号は守りましょうというのが常識です。
でも、状況によっては、
信号は必ずしも守らなくてもいいものなのでは?と思うのが私です。

コンビニに用事がなくても、5分程度の用事ならば、
駐車場に車を置くこともあります。

同僚と別のことで話をしていたとき、これを否定的に捉えた同僚と、
軽く喧嘩っぽくなりました。
(紙面の都合で、かなり文章を省略してあります。ご了承ください。)

(返信)
依存も支配も、相手がいないと成立しない、
という点においては同じです。
むしろ、その違いは、「支配方法」の違いといえるでしょう。

例えば、「同情の支配」は、依存の色が濃いのですが、
「同情を引くという手法で、相手を従わせようとする」支配ですね。

「押さえつけたり、脅して、力で従わせようとする」支配は、
相手がそれに屈するから、支配していられるのであって、誰一人、
それに屈しなければ、とたんにその人は、弱々しい人に変身します。

それが通用しないと知れば、今度は「病気で同情を引く」
というやり方で依存(支配)しようとしてくるかも知れません。

こんな意識と、「信号無視。無断駐車」と、どう関わってくるのか。
Wが、「支配と依存」と「信号無視と無断駐車」を
同列に捉えてメールくださったのは、
まさに、Wさんが、無意識のところで、
それに気づいているからでしょう。

基本的には、「信号無視」も、
「無断駐車」も、その人の自由です。
Wさんが、そうすることに対して
「心から、私がそうすることは、私の自由」となってほしいものです。

「えっ! 信号無視も、無断駐車も、自由ですって?」
そうです。                       つづく