支配と依存(3)

信号無視も無断駐車も、それを自分が選択するのは、自由です。

マクロを見ても、ミクロを見ても、
その全体像を把握すればするほど、
すべてが相対的に起きていると気づきます。

「正しい、正しくない」「善悪」というのも、
絶対的な見方と言えるでしょう。

たとえば前回、そんな行為も、無意識の視点からすると
「別の目的」があると言いました。

普段から我慢していることがあったり、
社会に関わりたいという欲求だったりと。
それを適切に満たすことができないために、
信号無視も無断駐車といった行為で、それを満たそうとするのだ、と。

それが、他者の目からみたら不適切だったとしても、
親がそんなやり方をしていて、
それを子供のころに学習しているとしたら、
適切な方法を知らないその人を、責めることはできません。

万引きだって、そうですね。
万引きという形で、あらわれている現象は、氷山の一角です。
実像は、水面下に隠れています。

「絶対的」という見方から解放されればされるほど、
水面下のその実体が見えてきます。

話を戻しますと、それをするのは「自由」です。

ただし、同時に、その選択と等分の「責任」が発生します。

信号無視でいえば、事故に遭う危険性が増えます。
実際に、信号無視を無自覚に繰り返していると、
知らずのうちにそれが「癖」になってしまいます。

すると、危険なことに、車を運転しているときも、
その癖が出てしまうというふうに、
制御できないことが起こり始めます。

いま執筆中の本にも書いているのですが、
これまで「青信号=進め」「赤信号=止まれ」と認識していた脳が、
「赤信号=あれっ、進め? だったかな」というように、
一瞬、脳の中で認識の混乱が起こるのです。

自業自得というか、自己責任というか……。
事故に遭うより、信号無視でパトカーに捕まる程度のほうが、
まだ、安全ですね。

無断駐車は、お店の人とトラブルが起こる可能性が高くなります。  

そんなリスクや不安の種を抱きながら、
それを実行することが、果たして、得かどうか。

自分の中に、解消されないマイナス感情が多ければ多いほど、
それが蓄積されて、自分の手で自ら、
人生をマイナスへと導いていきます。

罪悪感というのは、その最たるものです。

リスクや不安の種を抱えれば抱えるほど、
そうなっていくと言えるでしょう。

小さな得で、大きな損の種を育てる。としたら、
どちらがいいか。それを選択するのも自由ということになるでしょうか。