私が幸せなとき相手は不幸せ

「自分が幸せでいるとき、その事で、幸せでない人がでてきてしまうことってないでしょうか」という質問をUさんからいただきました。

例えば、「会社で仕事が上手くいった」事に対して、
よくない気持ちを持つ人って必ずいるように思います。
私の場合は、音楽に携わる仕事なのですが、
過去に(まだ学生時分だったのですが)、
演奏が上手くいったことで、仲間内からいじめに合いました。
「いい気にになって」と言われて、
ひどく傷ついたのが未だに忘れられず残っています。

日常でも、調子がよく夢中になって何かをやっているとき
機嫌のいいとき「好きなことできて、いいよね~」
とか「いいご身分だね」など
身近な友人や兄弟から否定的な感情を受けます。

何かとライバル視されがちかもしれません。
きっと私の中にそういう種・マイナス感情があるのかと思います。
周りの人たちも幸せになる自己実現・自己発揮が本当ですよね。

どんな事が起こっているのか、わからない、見えないので、
対処法もわからず、知らず知らずに
「少し不幸なところを見せていた方が、状況が楽だ」
という考え方になっていました。
何かの機会に示唆いただけたら幸いです。

(返信)
幸不幸の基準は、人それぞれです。
また、無意識の世界の視点からすると、いっそう、
ますます(と強調したいほど)、幸不幸の基準はわかりません。
というより、幸不幸の基準そのものが“ない”と言えるでしょう。

『演奏が上手くいったことで、仲間内からいじめに合いました。』
とあります。
これを、Uさんの「幸不幸」の基準に当てはめると、演奏がうまくいったUさんは、幸せ。いじめている人は、不幸、ということになるのでしょうか。

けれども、この現象を、いじめている人自身の問題としたとき、
「いじめている」ことで快感を味わっているとしたら、
決して不幸とは言えません。
「人をいじめる」という行為で快感を味わう、あるいは、多少、
気分が楽になるとしたら、その瞬間は、幸せだということになります。

本人が「私は能力がないから、演奏が下手だ」
ということに焦点を当てながら、Uさんをいじめているとしたら、
その人が実感しているのは「不幸感」でしょう。

けれども、その人が、「誰かをいじめると、
日常のイライラが吹っ飛んで、気分がスッキリするんだ。
だから、今、目の前にいるUさんを、
いじめて憂さ晴らしをしてやろう」
と自覚しながら、Uさんをいじめているとしたら、
その人が実感しているのは「幸福感」でしょう。

幸せかどうかは、自分の感じ方です。
「幸せを感じる」ことを知らない人は、何をどうしていても、
そばに幸せがあっても、幸せを感じることはできません。
「幸せを感じる」ことを知っている人は、どこにいても、
幸せを見いだし、それを実感できるでしょう。

上手な演奏に幸せ感を感じるか、いじめて幸せ感を感じるか。
どこに幸せを見いだすか、それも個々の自由です。

ただ、その選択の結果として、それを選択した責任もまた、
自分自身にかかってくる、ということでしょうね。

ですからUさんが、『日常でも、調子がよく
夢中になって何かをやっているとき機嫌のいいとき
「好きなことできて、いいよね~」とか「いいご身分だね」
など身近な友人や兄弟から否定的な感情を受ける』としたら、
“相手の幸不幸を悩む”より、そんな相手に対して、
まず、Uさん自身が、そんな相手の生き方の自由を
否定しないことでしょう。
相手を認める幸せもあれば、相手を否定する不幸せもあります。

“意識”という点から言うと、相手を否定しなければ、
Uさんの幸せを喜んでくれる相手が寄ってくるのではないでしょうか。