最近の子どもの打たれ弱さ 3 

        
「打たれ強さ」「打たれ弱さ」、いずれも、
責任を過剰に考えています。
責任を重く感じれば、それに耐えなければならないと
発想するでしょう。
そこに踏ん張っていなければならない、と発想するでしょう。

その責任の重さに耐えられなければ、放棄して、
動きたくなってしまうでしょう。

こんなふうに、どちらの状態も、「責任を過剰」に捉えています。

そのために、かえって「正当な責任」が果たせなくなってしまいます。

人生や物事に対しての選択権は、常に自分にあります。

自分の中に、心からその自由があるのだと、
実感できているかどうか。

「そうしなければならない」ものは、ほとんどありません。
極端に言えば、「自分の選択したこと」だけ、
責任を果たしていけばいいのです。

それが認識できれば、相手と重なり合う部分。
相手と重なって「相手がしてくれること」は、
心からありがとうと言えるでしょう。
近しい人が、黙ってそばにいることだけでも「ありがとう」なんです。

相手を好きになりたくなければ、好きになる必要はありません。
好きにはなれない。心からは愛せない。それでもいいんです。

この「選択の責任」でとりわけ重要なのは、
私が「心の中で、どう思おうが自由」だということです。
それは同時に、相手も「心の中で、どう思おうが自由」です。

それが認識できないと、「相手の領域に、心理的に踏み込み過ぎて」
摩擦が起こるでしょう。
悩みの多くが、この「心理的に踏み込み過ぎて」起こっています。
善意であっても、それを踏み越えないほうがいい、
と私自身も反省することがあります。

例えば、家庭で、洗濯を「主婦の役割だから当たり前」
と思っている人がいるかも知れません。
けれども、「選択の責任」で言えば、
これも“個々がそれぞれに洗う”です。

選択の自由。
これが自覚できればできるほど、
相手がしてくれるささやかなことも「ありがとう」なるでしょう。

愛せない人であっても嫌いな人、苦手な人であっても、それでも、
「相手がしてくれたこと」に限っては、
やっぱり「ありがとう」なんです。

強調したいのですが、ここは、分けて考えたほうが、
自分自身の心がラクになります。

常に自分には選択の自由があって、
その選択の分量だけ責任を果たせばいい。
相手の選択は、相手の責任。

こんな意識が育てば、あなたは、
「打たれ強さ、打たれ弱さ」の世界から外れた、
安全な世界の中にいることができるでしょう。