数字は共時性が起こりやすい

偶然だろうけど、面白いなと思うことが、度々あります、
というメールをいただきました。

例えば、母親の趣味に関する情報を頼まれて集めていると、
関心のある情報の日付が、母の誕生日だったり、
昔付き合った恋人の誕生日だったということがあります。

新しい恋人の星座が、以前付き合っていた恋人の星座と同じだったり、
恋人の家族の名前が、昔の恋人の名前だったり。
友達の住所が、昔、よく行っていた友達のすぐ近くの住所だったり、
ということもありました。

こんな偶然って、思った以上にあるものなんですね。

(一言コメント)
こんな共時性は、意識すれば、たくさんあることに気づくはずです。

とりわけ、数字や文字は、共時性を起こしやすい。

それは、私(石原)の勝手な解釈ですが、数字や文字は、
とても“素直”だからです。

自分が意識すれば、応えてくれます。

けれども、対人間では、そうはいきません。

例えば、自分がAさんに発信しようとしても、Aさんが、
それを拒否していれば、
「私がAさんに連絡しようと思っていたら、Aさんから連絡がきた」
というようなことは、起こりにくくなります。

そんな共時性で、私がすぐに思い浮かぶのは、
メールです。
メールをしようと、相手のことを思っていると、
相手から先に連絡がくるというのは、かなりの頻度で起こっていて、
数分前にもそれが起こったばかりです。

すでに私の中では、そんな共時性は「当たり前」になっています。

こんなことがいとも簡単に現象化するとしたら、
自分の意識を無視して、人生を語ることができるでしょうか。

自分中心心理学では、これを必然と捉える以上に、
我々が、それを創りだしている、というふうに捉えています。
その創造の元になっているのが、“意識”なのだと。

最近、つくづく、思うのです。

自分の目の前で起こっている現象は、そのまま自分の映し鏡だと。
まさに意識のままだ、と、そう思うのです。

こだわれば、形になる。
意識すれば、それが形になる。

「こだわる」という言い方をすれば、ちょっと
マイナスイメージの感じがするでしょう。
「意識する」という言い方は、どちらにも偏っていない中庸
の感じがします。

意識することに、本来、「良い、悪い」はありません。
良い、悪い関係なく、意識するもの、意識することが、
形になる。

起こっていることに、意味づけをするのは、
我々だということなんでしょうね。

「ちょっと意識する」。

それだけで、「なぜこんな偶然が」
と意味を考える時間も必要性もないぐらい、
共時性がたくさん起こります。

私たちに、数字や文字のような素直さがあれば、
私たちは自由自在に無意識を活用できる能力が備わっているのです。