美しき弊害

 一般的な眼からみたら、
「いったい、どうしてこんなことが起こるのだろうか。
どこが悪いかさっぱりわからない」
と、まったく理解不能に見えるケースがあります。

けれども、どんなに自分が善意をもっていても、
愛情を持って努力しても、やり方によっては、
悪化させてしまう場合もあるのです。

臨床の現場でも、そんなことを聞くことがあります。

Aさんは、何年も診療内科に通っています。
よく話を聞いてくれる先生なので、通い続けられるのです。
けれども、少しも変わらないどころか、最近、なんだか、
いっそう、悪くなったような気がします。
Aさんと接する機会がある人とも、トラブルが増えてきています。
 先生は、優しい人です。善意も感じられます。
 だから、先生とトラブルが起こりことはないのですが、
なんだかますます、自信がなくなっていて、
「みんなが、私をあざ笑っている」というふうに、
Aさんの眼には映ります。

 病院の先生は、とても親切です。 
Aさんの話も、やさしく根気よく聞いてくれます。
 家でも親は理解があって、決して、ひどい環境ではありません。
むしろ、家族は、愛情を持って接してくれています。
 とても理想的な環境のように映ります。
 それなのに・・・・。

いったい、何が起こっているのでしょうか。

 よくよく話を聞いてみると、「Aさんと先生」の関係は、
「(いわば)愚痴をこぼす私」と「黙って聞いてくれる先生」
の関係でした。
 
この「関係性」が、Aさんを苦しくしていました。
 
 Aさんの先生は、何年もAさんの愚痴を聞き続けました。
 一般家庭ではよくあることです。
 母親が娘に愚痴をこぼす。姑が嫁に愚痴をこぼす。
妻が夫に愚痴をこぼすといったふうに。
パターンはこれと似たり寄ったりだったのです。
 むしろ、「金銭契約」を結んでいるために、
先生のほうがこの「関係性」に気づかないと、
忍耐強く続けられるので、
善意がかえって問題を深くしていくでしょう。

 このパターンのどこか不適切なのでしょうか。
それは、問題を起こしたAさんの「相手」が、常に、
そこに“存在しない”ということです。

いつもAさんは、誰かと問題を起こしても、
相手と話し合うことはいっさいなしに、
それを病院で「先生に聞いてもらう」。
このやり方では、「私が、私を守るために、
自己表現したり行動する」という能動性が育ちません。
能動性どころか、そのスキルすら学習する機会がないので、
「病院の先生と話をすることはできる」
けれども、ふつうの関係でコミュニケーションを
とるのはむずかしい、となるでしょう。

問題が起きても、「誰か第三者に愚痴をこぼす」では、
「相手と話し合って解決する」ことはできません。
さらには、相手がいつも、
全面的に話を聞いてくれる状態でなければ、
話をすることができない。これでは、人と話をするのが怖くなります。

といふうに、直接相手と向き合って
一対一で話し合うことができなくなっていくのですから、
人と関わるのが、
ますます、むずかしくなるのは当たり前なのです。