選択の責任

多くの人たちが、責任をとることを恐れます。
けれどもそれは、責任の範囲が具体的に見えないからです。

他者中心になると、いっそう具体的な「選択の責任」の
範囲が見えにくくなっていきます。

「選択の責任の範囲」というのは、
感情とを別に分けて考えることができてはじめて、
その所在がはっきり見えてきます。

逆の言い方をすれば、「具体的な選択の責任」と
「感情」をごちゃまぜにしてしまうから、
問題の本質が見えなくなってしまうということなのです。

「具体的な選択」と「感情」を別個に分ける考え方は、
一見「冷たい」
ように映るかもしれません。

しかし、「選択の責任」は、
「相手の生き方を認める、自分の生き方を認める」上で、
もっとも根本的かつ重要なことなのです。

ときには相手のその選択が間違っていて、将来、
問題が起こるだろうとわかっていることもあるでしょう。

それでも、「自分の意志を大事にすること」
「自分の生き方を自分が認めること」
「相手の生き方を認めること」
などを知るためには、間違った選択も必要なときがあります。

失敗するのが必要なときがあるのです。

「間違った選択をしたとしても、
自分が自分の責任だけを負うのは怖くない」
あるいは「責任を果たす気持ちよさを知る」などは、
「結果」を心配し、失敗を予測して禁止していては体験できません。

その「プロセス」の体験を通してしか
学ぶことができないものではないでしょうか。

その選択が間違っていようと適切であろうと、
「自分の意志で選択し、責任をとっていく」という、
まさにそのプロセスこそが、自分を育てるものなのです。

だからこそ、仮に相手のその選択が間違っていると思えても、
「相手の選択の責任を認める」ことが大事なのです。

このような「選択の責任」を、
自分が具体的にちゃんと分けて考えられる眼が
養われてはじめて、「依存や支配、同情、なれあい」
といったものとは異なる、ほんとうのやさしさが
感じ合えるのではないでしょうか。