過去の手紙と写真 (Mさんからの投稿)

今日は、年賀状を一枚一枚書いた。

(傍らに)彼から、もらったたくさんの手紙、写真たち。
捨ててみようかな、と、ちょっと、思いついたら、
捨てるのは、とても苦しい、って、感じた。
こんなに、愛着ある、ことが、わかった。

でも、連絡する勇気ない。
また恋人関係になる、のは、想像しにくい。
私は、それを望んでいる、と、言い切れない。

このまま、何も行動しないことで、
完璧に可能性はない、に、対面しないで、
行動しなければ、ありもしない可能性を、
あるように、わざと思い込んでいるみたい。

戻らない過去なのに、捨てるの、つらい。
普段、見ることもないのに。

捨てたい、と、思ってみた。
でも、捨てたら、二度と、読み返せない、のは、つらい、
ような気がする。
でも、捨てることできたら、本当に、思い出にできるような気がする。
でも、捨てたら、なにもかも、消えてしまいそう。
でも、持っていても、何か、変わるわけでは、ない。
読むと、元気になるわけでも、ないのに。
気持ちぐるぐる、、。

と、書いていたら、
「●●ちゃん」という彼に愛着がある、というより、
彼と楽しいおもしろいって、過ごしていた「あの頃の私」
に、愛着あるんだ、と、思ってきた。

なんだか、涙がでてきた。
なつかしい、でもなく、くやしいでもなく、悲しいでもなく、
胸がじわーっと湿って、涙が、でてきた。

(返信)
このメールをいただいた前の日に、ちょうど私も、
整理のために過去の写真を見たばかりでした。
昔の写真をみると、それぞれの人たちと
その当時の出来事を思い出し、懐かしい気持ちが湧き上がります。

そのときの光景が、何十年経っても色褪せず、時を超えて鮮やかに蘇る場面もあります。

Mさんのように、今は会えない人でなくて、
今も会っている人。たとえば、息子。
彼の幼い頃の写真をみると、今の息子と過去の息子とは、
別の人のように感じます。

映像が実は、一こま一こまの連続であるように、
彼の過去のすべてが、連続としてあるというよりも、
一こま一こまに見えるのです。

いま、成長した息子が私の眼の前にいても、過去の彼はいません。
五歳のときの彼、六歳のときの彼。

幼い頃の彼というよりは、一葉、一葉の写真が、
その一葉、一葉の写真で完結します。

だから、私は、息子という一人の人ではなくて、
その時々の彼の写真を見るときや、
過去の出来事を思い出すとき、もう、
無限に数えきれない彼と会っている。そんな気持ちになるのです。

毎日、毎日、別の人と会っている。
だから、眼の前にいる「今の瞬間のその人」が貴重なのだと・・・。