「思考」と「損得」で損をする 

「感情を基準にする」と言うと、
感情だけで動く動物的なイメージを抱く人がいるかもしれません。

けれども本当は、感情を基準にしていない人ほど、感情的になります。
なぜなら、感情に気づくということは、
自分の気持ちや欲求に気づくということだからです。

自分の感情に気づかなければ、
自分が「我慢している」ということすら、わからないでしょう。
我慢していれば、気づかずにイライラしたり、
腹を立てたりしています。

もしあなたが、絶えずイライラしたり、
腹が立ったりしているとしたら、
「したくないのに、仕方なくやっている」
「したいけれども、我慢している」
というふうに、何か我慢していることがあるのだと、
自覚してほしいものです。

少しずつ我慢をやめていくだけでも、
感情的になることが減っていくでしょう。

「感情を基準にする」というのは、
思考するなということではありません。

また、私はよく、「損得を考えない」という言い方をしますが、
これは、損得を考えてはいけないという意味ではありません。

「べき」思考的捉え方をすると、「思考してはいけない」
「損得を考えてはいけない」というふうになりがちです。

決して、そういう意味ではありません。
自分の欲求に気づいたら、自分がそれを満たすために
「思考する」必要があるでしょう。

自分の欲求に気づいたら、それを達成するために、
損得を考える必要があるでしょう。

この違いは、わかる人とわからない人がいるのではないかと
思うほど、微妙です。

簡単に言うと、「思考」と「損得」の前に、
「自分の欲求があって、それを自覚し、
しっかりと実感しているかどうか」です。
それによって、結果はかなり違ってきます。

例えば、同じ商品がA店よりはB店のほうが
少し安いとしましょう。
けれども、A店はすぐに買えるけれども、
B店のほうは人が並んでいて時間がかかるとしたら、
どちらを選ぶでしょうか。

時と場合によるでしょうが、
「いつも必ず、絶対に安いお店で」と決めてしまうと、
そんなお店を毎回探し出すことに、
時間と労力をかけようとするでしょう。

もしかしたら、わずかな得のために、
遠くの店に出かけることになるかもしれません。

そうやって必死になっていると、
「ほんとうは疲れていて、出かけたくない」
と感じていても、自分がそれに気づいていないかもしれません。

自分中心的に捉えれば、疲れていることに気づいたとしたら、
目先の得よりは、
「今日は、疲れているので、やめよう」
と、決めることができるでしょう。

目先の利益でみれば、得したように見えることであっても、
「時間と労力」とを比較すれば、
決して得したとは言えないでしょう。

それだけではありません。もっと自分にとって不利益なのは、
「少しの利益のために時間と労力を使う」ことが、
パターンになってしまうことです。

これは、自分の「時間と労力」に支払われる対価を、
自ら低くしているようなものです。

トータルで言えば、これは膨大な損失だと言えるでしょう。

こんなふうに、自分の欲求や気持ちを無視した思考や目先の損得は、
結果として、損する結果となる確率がはるかに高いでしょう。